2010年12月31日
酒樽屋(さかだるや)十二月の愛聴盤 「十二月の子供たち」
ROLLING STONESの[december'childeren and everybody's]です。
マリアンヌ フェイスフル1964年のデヴュー曲"As Tears Go By"の本家版を、
含む1965年のアメリカ盤。こちらはモノラルです。(確か英国盤は無かった筈)
STONESの2枚目のアルバム。
何故か現在、単品のCDとしては入手不可能。
2010年12月29日
酒樽(さかだる)を店舗での展示用の木製樽(たる)に改造
京都祇園の某店からの依頼で、四斗の酒樽(さかだる)を改造して、
店舗でのディスプレイ用、すなわち樽(たる)の上に商品を陳列して販売する容器にしました。
今回は予算の関係上、一度使った樽(一空樽)を使用したので、蓋が入っていた跡が残っております。
更に、この上へ赤毛氈を敷くので蓋跡があっても問題はないそうです。
常に一空樽(いちあきたる)が沢山ある訳があるとは限らないので、
本当は陳列用樽すなわちディスプレイ樽は専用の材料を使って、
上から15センチの所に底が来るようにつくるので、普通の樽(たる)よりやや割り高になります。
酒樽屋(さかだるや)の必需品、2
2010年12月28日
酒樽屋(さかだるや)の必需品、1
竹の箍(たが)を巻いたり、樽を触ると必ずと言って良い程、
掌に「棘(とげ)」が刺さります。
すぐに抜かないと痛いので、樽屋は必ず「棘(とげ)抜き」を持っています。
仕事場に、車の中に、ポッケットの中に...........
かつて、割り箸くらいの大きさの棘(とげ)が足を貫通したこともあります。
この時は三人掛かりでペンチで引き抜きました。
写真のうち赤い色の物は4000円以上もするスイスのRubis社のものですけれど、
そんなに性能が良いとは言えなくて、がっかりしました。
2010年12月26日
和樽(たる)をつくるために箍(たが)を巻く
酒樽屋(さかだるや)の聖夜祭
酒樽屋の親方が昔、住んでいた場所のすぐそばに教会があります。
六甲カトリック教会といいます。
当時は彌撒MISSAも讃美歌INNOも羅甸LATIN語だったのですけれど、今はかわりました。
余り知られていませんが、この教会の前に島尾敏雄が住んでいて、
久坂葉子氏や富士正晴氏がよく尋ねて来ていたそうです。
島尾敏雄氏の亡妻ミホ氏がカトリック信者だった関係もあったのか、
島尾氏自身も後年入信しています。(洗礼名ペテロ)
最近、刊行された島尾敏雄の日記に詳細が出て来ます。
ここの教会は定時に鐘楼が鳴り響くので、朝も遅くまで寝ている方から苦情があり、
一時休止していましたが、これは復活しました。
羅甸語彌撒の復活は無理だそうです。
2010年12月24日
樽造りの先達、DVDで技術を披露す
今日はクリスマスイヴですが酒樽屋は、この時期が一年で最も忙しい時期です。
そんな時、富山県砺波市の教育委員会の御好意で写真の様な貴重なDVDと資料を頂きました。
同市にお住まいの市内最後の樽職人、石黒孝吉さん(大正9年生まれ)の仕事の工程が映像になっています。
既に引退されておられるのですが、この撮影のために数日間のみ復活されたそうです。
この方は元々、桶屋さんでしょう。基本的な造り方は同じですが「型板(かいかた)」という、定規を用いる点、
「前鉋」(関西の呼び名は槍かんな)を多用する点などが「樽屋」と違います。
一番驚いたのは、榑(側面の丸みのある板)や輪竹、果ては木栓まで、全て一人で作ってしまう事でした。
しかし、使っている材料が全て「吉野杉」だったので安心しました。
地元の「若鶴酒造」の専属だったそうです。もう一軒の「立山酒造」の酒樽は樽屋竹十が作っております。
全国各地の桶屋さんは少量の注文に対し、このDVDのように桶作りと同じ手段で一日に一個の樽を作って来たそうです。
かつては樽屋竹十でも全て自分の所で作っておりましたが、徐々に分業化していきました。
和樽の製作に専念して、大量の注文に応えなければならないからです。
今は全国でも「樽屋」より「桶屋」の方が少なくなってしまいました。
「樽屋」が10件程、「桶屋」は更に少なくなりました。
この砺波市でも、かつて42人いた桶職人が、この石黒さんを最後に一人もいなくなってしまったそうです。
五年前に72歳で亡くなった同市の桶職人、宮島良一さんが愛用されていた桶道具は、
「暮らしを支えた桶(おけ)・樽(たる)展」と題して同年、砺波市太郎丸のとなみ散居村ミュージアムの民具館で展示されました。
そんな事もあり、平成15年に砺波市郷土資料館が「村をささえた職人展」を開催しました。
この際の縁で、DVDも今年の三月に製作された訳です。残念ながら非売品、品切れです。
2010年12月23日
年末ですから酒樽屋(さかだるや)は休日も出荷する
世間では本日祝日の由。しかれども酒樽屋(さかだるや)にとって師走に休み無し。
未だかつて「勤労感謝の日」と称す旗日に慰労会を催した樽屋(たるや)を聞かず。
ましてや、年末ともなれば、全国の造り酒屋へ、近所に点在する馴染みの酒蔵への配達、
そこにHPをご覧になったからの御注文発送が、
加えて「樽屋竹十」へ直接、樽(たる)を探しに来られる方々.................................
漬物樽や味噌樽を買いに遠くから来られる方々................................................................
酒樽(さかだる)は、殆どが年末年始の鏡開き用。
最近また復活して来た店頭での「振る舞い酒」に加え、各家庭で各々お好みの酒を、
吉野杉製木樽に容れて楽しむ個人のお客さまも多し。
写真の中、一番左の段ボール箱には、鏡開き用の木槌、竹杓、杉桝などを同梱。
宅配のトラックも徐々に受け付け締め切り。
樽屋竹十の受付は年末30日まで。
有り難いことです。
2010年12月20日
酒樽屋(さかだるや)も年末には新しい手帖を買う
2010年12月19日
四種類の味噌樽(みそたる)
酒樽(さかだる)屋の最盛期
師走の酒樽(さかだる)屋。
一年で一番たくさんの酒樽(さかだる)が各酒造会社へ納品されます。
余りに多いので樽屋竹十のトラックには積みきれず、4トン車が登場しました。
この日、出荷した樽(たる)は「ハンダルセット」という
伏見の宝酒造と樽屋竹十が共同開発した特殊な酒樽(さかだる)で、
四斗樽(たる)すなわち72リットルの形をしていても容量は二斗(36リットル)分という
上半分が吉野杉による従来の酒樽を半分にした物。下半分はタカラ容器という別の会社が作っている発泡スチロールによる物。
最初から菰を巻く事を前提に考えられた商品なので、一般の方の使用には適しておりません。
積載する時は別々になるので、酒樽(さかだる)の部分は「盥(たらい)」の様に見えます。
2010年12月18日
無添加の木製和樽(たる)
人間が食べる物ですから、同じハムでも原材料が「豚肉」と「食塩」というシンプルなものが好きです。
何故、ハムに「水飴」等々を添加しなければならないのでしょう。
食料品には最低限の保存料添加で押さえて頂きたいと思います。
欄からはみ出る程、沢山の種類の聞いた事も無い化学薬品を含んだ食品が町にあふれています。
一ヶ月も車の中に置き忘れていた食パンが腐らず、未だふわふわしていた事があり驚きました。
樽屋竹十の和樽(たる)も原材料は「杉」と「竹」のみ。
稀に「和紙」を含む。というシンプルな物で、決して化学物質を使用しない事にしております。
防腐剤等を含んでいませんから当然ながら、湿気を含むと「カビ」が発生する事もあります。
「カビ」が発生する方が自然で、「カビ」が出ない方が危険ではないでしょうか。
最近「黴(かび)」に対し過敏に反応する方が増えました。
清潔過敏症にならないように気を付けましょう。
発ガン性のある防腐剤の方に注意すべきではないでしょうか。
こういう問題に関しては、余りヒステリックにならない位の方が良いと思います。
現代は江戸時代と違って、流通も変化しましたし、安全な添加物も開発されている筈です。
2010年12月17日
酒樽(さかだる)屋の夜なべ
2010年12月16日
大阪 適塾の大名竹の竹は酒樽(さかだる)には適していない
商人の町、町人の町大阪は。幕末と変わらない自由闊達な雰囲気が残っています。
御堂筋のすぐ東側の船場北浜。高層ビルに囲まれて町家が一軒残っています。
隣に不思議な趣きのある木造の愛珠(あいしゅ)幼稚園も残っており、この二軒が奇跡的に戦災を免れたそうです。
この幼稚園は木造では日本最古の由。後日、別に紹介します。
緒方洪庵が弘化2年(1845年)現在の場所にある商家を購入した建物です。
彼は号を適々斎と称し、その塾を「適々斎塾」または「適塾」と呼ぶようになりました。
この私塾は、「己の心に適(かな)う所を楽しむ」を意味し、
「意の適(かな)ふ所は諧謔して日を竟ひ、適はざる所は望々然としてこれを去る。履行多くは縄墨に中(あた)らず」と言った柏木如亭を思い起こします。
洪庵は文化7年(1810年) 岡山に生まれ、
長崎で蘭学の修行の後、天保九年(1838年)、二十九歳の時に開塾。
文久3年(1863年)五十三歳の死去まで二十四年間に渡り、適塾は続きます。
因に急死の原因は、友人の広瀬旭荘の意見によれば、江戸城西の丸火災の時、
和宮の避難に同行して長時間炎天下に居たからだとも。
伊藤博文ら塾生たちは、ここで厳しく学び、多いに酒を呑んだといいます。
日本で最も栄えた蘭学塾とはいうものの、当時では質素な建物で、
中庭を隔てて洪庵が使った書斎があり、その人柄を思わせる端正な佇まいです。
吉田松陰の松下村塾を思想教育の塾だとすれば、適塾は医学、語学教育の塾でありました。
一般公開されていますが、残念ながら現在は改修中で来春まで中に入る事は出来ません。
医学校を経て今の大阪大学の源となった塾なのです。
2010年12月14日
漬物容器は木製樽(たる)が一番なのです
漬物をつくるために各種容器が使用されておりますが、
やはり、吉野杉の木製樽(たる)が漬物容器としては一番です。
この時、注意しなければならない点は木製樽(たる)なら何でも良いという訳ではなく、
必ず、長期保存容器には「板目」の樽(たる)と押し蓋(ふた)を。
「柾目」の樽(たる)は、正確には「桶(おけ)」であり、二三日の短期用の容器です。
押し蓋(ふた)は出来るだけ厚みのある物を。
薄いものは長い間に歪んで来てしまいます。分厚い板目の蓋(ふた)でも多少は波打ちます。
毒性は無いと言われてはいますけれど、木工用接着剤を使用していない物を。
表面や内部、底をクリアラッカーなどの化学物質や天然の漆(うるし)等で塗装していまうと、見た目は美しく出来上がりますが、
これでは、折角の木製樽(たる)なのに、漬込んだ野菜等が呼吸出来なくて窒息してしまいます。
こうなると、野菜から出た水分を外に出す事が出来ませんし、新鮮な空気を内部に入れる事も出来ない事になります。
また、化学的物質を使用いてあるとアトピーなどアレルギーの方やハウスシックの方には不都合があらわれることもあるようです。
木製樽(たる)は野菜と同じ植物なので、琺瑯(ほうろう)や「かめ」、プラスチック系より、相性が良い訳で、初心者の方が作っても必ず美味しい漬物が出来ます。
写真の貫禄ある糠(ぬか)は京都、錦の漬物屋さん高倉屋の工房にて
2010年12月13日
酒樽(さかだる)を作る時に出来る大鋸屑(おがくず)
酒樽(さかだる)にしろ桶(おけ)にしろ、木製の物を作る時には必ず大鋸屑(おがくず)、鉋屑(かんなくず)が出来ます。
文字通り「おがくず」とは大きなノコギリで材木を挽いた後の「挽き粉」の意味です。
「おが」は大きなノコギリ、「が」は、ガガガという鋸を挽く音が語源です。
杮(こけら)とも呼びます。
「こけら」とは、小さな木片を意味し、
「こけら落とし」とは、舞台が完成した時にそれを落とす初舞台を差す訳です。
ただ意外な事に、この「柿(こけら)」と果物の柿(かき)は全く別の漢字なのです。
「柿(かき)」の右側の「つくり」は、なべぶたに巾、
「杮(こけら)」の旁の縦棒は一本で書かれています。
こちらのサイトで動画付きで詳細を解説して下さっています。
但し、逆の説もあり、真相は定かではありません。
樽屋(たるや)では、これらを「ばんば」と呼びます。
正確には「ばんば屑」でしょうが、「ばんば」の語源は不明です。
この「ばんば」を釜で燃やす事が樽屋の丁稚の仕事でしたが、
今では「入浴剤」「脱臭材」あるいは「「着火剤」など、意外な用途に使われます。
最後には友人のイタリア料理店、P氏の窯の中で燃えてピザになります。
すなわち、木製樽の材料である杉と竹は一切無駄の出ない環境に優しい素材である訳です。
酒樽(さかだる)を作るために竹を削る
鏡開き用の酒樽(さかだる)を作るには、吉野杉以外に真竹を割って節を削った「輪竹」が必要になります。
これが大変難しい作業なのです。
竹林は日本中に過剰な程あり、その管理費用が捻出出来ない状況下、荒れるにまかせております。
そんな訳で材料の確保には不自由しませんけれど、
切り出して麓まで降ろし、神戸市内までの運搬に最も手間がかかります。
麓の竹から先に伐採すれば簡単なのですが、竹林の真ん中から切らないと山は枯れてしまいます。杉山も同じ問題をかかえております。
昔は酒樽(さかだる)用の竹は京都の右京区から大山崎付近の物を使用して来ましたが、
戦後は、もっぱら山田錦と同じ六甲山の裏側から伐採して来ます。
輪竹が無い事には箍(たが)が組めませんから、樽(たる)を作る事が出来ないのです。
更に大変困るのが、大量に出る竹の削り屑や竹株の処理です。
上の写真は竹を削った時に出る「竹の身」、これがやっかい者なのです。
現在は自分の敷地内でも裸火は違法なので、燃やす事は厳禁です。
この白い部分は、ある物の材料になるのですけれど、未だ開発途上。
竹の先の部分は箒(ほうき)屋さんが、その柄の材料に買ってくれた時代がありました。
今はプラスチックの柄の付いた外国産がたくさん輸入されて、
箒(ほうき)屋さん自体、殆ど見かけません。
その後、竹馬(たけうま)の材料として各小学校が買って下さいました。
これも、子供達には危険な遊戯器具と見られて禁止され、
今では、農作物の支え棒として近所の農家へ届けられています。
細かい竹の粉は肥料として利用されております。
2010年12月12日
樽酒(たるざけ)用の酒米の収穫
正月や大晦日の樽酒(たるざけ)鏡開きには間に合いませんが、
この冬に寒造りする酒のための米が収穫されて、
各蔵元へ続々と届いて来ました。
灘五郷では殆ど山田錦という特別の米を使います。
六甲山の裏側の方で丹念に育てられた清酒専用の米です。
写真の米は神戸市北区大沢(おおぞう)地区の西さんが育てた米です。
2010年12月11日
酒樽屋に来客続く
師走も半ば近く酒樽屋(さかだるや)も酒樽(さかだる)つくりに、てんてこ舞いの毎日です。
酒樽(さかだる)が珍しいもでしょう。
毎日のように来客があります。
写真の左側の男性は台湾の方、隣はカナダの方で近所の大学に留学中の由。
この数時間前にも漬物樽を購入されに来られた方がいらっしゃって、
酒樽屋(さかだるや)は大忙しです。
樽屋竹十は基本的にオーダーメードの店ですので突然来店されても、
御希望の「樽(たる)」がある訳ではありません。
人気の一斗や二斗、あるいは五升の漬物樽が出荷用に数個あるだけです。
酒樽(さかだる)も完成直前の物はたくさんありますが、
最後の仕上げと洩れの検査は集荷直前に行います。
ご来店の節は前もって、お電話をお願いします。
��78−861−8717
午前8:00頃〜午後5:00頃まで。
2010年12月9日
大衆劇場から鏡開き用の酒樽(さかだる)御注文
和歌山市の真ん中に紀の国ぶらくり劇場という劇場があります。
神戸にもこのような劇場「新開地劇場」があり、東京には木馬館が健在です。今では、こういう劇場は珍しくなってきました。
北に桶屋町、西に大工町という町名が残っており、かつては職人の町だったのでしょうが、
今では全くその面影はありません。
ここの支配人の方から年末に劇場で鏡開きをして振る舞い酒をしたい旨の依頼がありました。
昭和40年頃まで、人の集まる百貨店の前などでは必ず年始に鏡開きをして樽酒を振る舞ったものです。
最近、こういう昔の風習の良さが再認識されてきて、
鏡開き用の酒樽で樽酒という習わしが復活しつつあります。
年末年始の酒樽ご購入の予約が殺到しております。
予約は早めにお願いします。
2010年12月8日
酒樽屋の虫養ひ 其の拾肆 日牟禮庵の蕎麦
日牟禮庵(ひむれあん)、手打ち蕎麦の味もさることながら、
ここの土蔵は国指定文化財だそうです。
近江商人の自宅だったという大正期の町家を改装していて、庭にも趣きあり。
蕎麦は「大盛り」を注文すれば良かった。
日牟禮庵
電話 0748-33-2368
滋賀県近江八幡市西元町61
営業時間 11:00~14:30 17:00~19:00
定休日 月曜・第3火曜
2010年12月7日
五十年ぶりに醤油樽(たる)が復活
酒樽(さかだる)に接着剤を使わず、竹釘を使うので起こるトラブル
2010年12月4日
野田から醤油樽(しょうゆだる)の研究者来たる
「野田の樽職人」の著者小川浩氏が千葉県から樽屋竹十に樽の調査に来られました。
醤油樽(しょうゆだる)の研究を長く取り組んでおられます。
一日ご一緒させて頂き、こちらも学ぶ事が多々ありました。
かつて民俗学者 宮本常一氏が監修されていた、近畿日本ツーリスト発行の小冊子「あるくみるきく」の内、「灘五郷の樽と桶」の号に小川氏も寄稿されています。
最近、この雑誌が単行本にまとめられ関東編から順に刊行されていますので、
そのうち皆さんの目に留まる筈です。
2010年12月3日
樽(たる)の中に入った聖護院大根
2010年12月2日
ロンドンの100CLUBでRonnie WoodとMick Taylorが共演
珍しいジョイントですね。
Ron WoodsとMick Taylorが[SPOONFUL]を演っています。
新しいCD[I Feel Like Playing]も出たのでロンドンの小さい小屋で遊んだのでしょう。
STONESの時とは随分違って、テキトウです。
2010年12月1日
深夜、西麻布ではなく麻布十番で樽屋竹十の漬物樽に出会う
日付も変わる頃、麻布周辺を歩いていると、樽屋竹十の漬物樽に遭遇。
しかし、そこは清酒を呑ませる居酒屋ではなくフレンチ焼鳥とワインの店「匙」。
かつて、港区へたくさんの漬物樽を送った事を思い出しました。
余った樽(たる)を「物入れ」として転用し店頭を飾ったのでしょうが、
自分の作った樽(たる)と意外な場所で偶然再会する事は奇妙なものです。
毎日のように全国へ漬物樽(つけものだる)や味噌樽(みそだる)を出荷していますから、
こういう不思議な夜があっても不思議ではありません。
ただし、作った者にとっては屋外に並べるだけなら、植木鉢樽(たる)のように、
それなりの作り方があったのにと、少々残念でもあります。
2010年11月29日
酒樽屋がつくる一番大きな味噌樽(みそだる)
今年も味噌作りの季節になりました。
去年と少し違う傾向は皆さんの作られる味噌の分量が多くなって来た事です。
これまでHP上で販売して来た「大」と「小」では間に合わず、
その倍や更に四倍の大きさの味噌樽が必要になります。
��0キロや30キロ或いは40キロの味噌つくりに対応出来ます。
これ以上大きい物は四斗の漬物樽に被せ蓋(ふた)を添付する方法を取ります。
蓋(ふた)を二枚、落し蓋(ふた)と上の被せ蓋(ふた)の二枚を必ず付けるのですが、
これも完全に接着剤を使用しない物に変更しました。
写真の味噌樽(たる)は高さが一尺八寸(約56センチ)もあります。
更に蓋(ふた)の厚みも七分(約2センチ)の厚みの丈夫な物になりました。
蓋(ふた)や底に使う材料ももちろん吉野杉です。
ちなみに左で植木鉢に使用している樽(たる)が四斗樽(たる)すなわち56型、
右側に見える小さい漬物樽(たる)が五升樽(たる)すなわち27型です。
2010年11月24日
酒樽屋が酒樽をつくる
弊店の樽は全て吉野杉で作ります。
殊に重要な側面の「榑(くれ)」と呼ばれる箇所は、奈良県吉野郡川上村の原木のみ、
ごく稀に近隣の黒滝村、東吉野村の杉を用いる事もあります。
この三ヶ所の杉のみ、江戸期から樽材として植林されて来た杉です。
樽の需要が減ると共に建築材への転用が増えて立場が逆転しましたが、
近年、建築材も外材に押されて内地材の使用が減り、樽材の立場戻って来ました。
残念ながら、酒樽は固定価格なので樽材も余り高価な原木は使用出来なく、
更に良い原木自体が入手困難になって来ております。
吉野地方の木材市場に良質の杉が出品されなくなり、
樽丸業者がたいそう困惑している状況です。
幸い、弊店は自身の山林から酒樽に相応しい吉野杉を直接伐採し、皮を剥いて、
山中にて乾燥させ、ヘリコプターを利用して麓まで降ろします。
命をかけた仕事です。
杉に限らず、材木は麓からではなく、奥地から順に伐採しなければならないので、
切り出し作業が困難です。
ロープを張って他人の山の上を通過して降ろすと通過料を請求されます。
急いでいるときはヘリの方が費用はかかりますが、手続きが容易です。
最近は切り出し専用の林道を造る方式が採用されています。
建築材として植林していたので直径が約1メートル位の百年ものを贅沢に使います。
木目も密集していて色も良く,良い手入れが施されていて高価ですが、
作業はむしろ楽になります。
酒樽には本来60年〜70年ものが最適と言われていましたが、
適度な材を入手出来ないので仕方がありません。
��0年以上前の原木は径が大きい事と白太が経年により変色しているので良質の甲付材を多く取る事が出来ないという問題も含んでおります。
ちなみに百年以上の杉は老化が始まっているため、酒樽には適しておりません。
その後、四斗樽用、二斗樽用、一斗樽用、
及び二斗ハンダルセット用の四種(四斗ハンダルセットは一斗樽)の長さに切断し、
それをミカン割リにします。
その後、一番外側の白太は柾目に割り、桶に。或いは箸に使います。
外が白太で中が赤味の「甲付材」を最初に割り、続いて直ぐ中の赤味を割ります。
甲付材は一本の原木から一ヶ所、赤味材を二三枚取ります。
専用の刃物「銑(せん)」を用いて、仕上げ充分な風と日光にあてて乾燥させます。
蓋(ふた)と底は廉価に作る必要がありますので、吉野材の中でも一段階低い
原木を、今度は割らずに製材所で電動鋸によって挽きます。
これも充分な乾燥を経て、選別し例えば四斗樽の蓋ですと径が大きいので、数枚の板を竹釘を用いて継いで行きます。
これに鉋をかけて帯鋸で回し、丸く加工します。
人体に悪影響を与える接着剤等は一切使用しません。
アトピーやハウスシックの方に大変迷惑をかけるため、たとえ手間が何倍もかかれども化学物質は一切使用しないことにしました。
杉は柔らかい木ですから竹箍(たが)で樽を締める際に木目が圧縮されますので、
完成した樽を丸く仕上げるためには、底と蓋(ふた)は微妙な寸法ですが、楕円に加工しなければなりません。
底と蓋(フタ)の材料は樽丸をミカン割した際に木目が歪んでいたりする物も出て来ますので、これを利用する事も最近では増えました。
側も底蓋も原木の質。その年の気候、乾燥させる場所によって様々です。
完全に乾燥してしまうと酒樽特有の木香が抜けてしまい。乾燥不十分ですと、樽に狂いが生じますし、場合によってはカビ等が発生する原因になります。
カビと思われているうちの殆どが、杉の「アク」であり、カビは殆ど発生しないよう留意しております。
吉野杉は秀吉の時代に樽の材料のために日本で始めて本格的な人口植林をはじめたものです。この中心になったのが吉野郡の奥地である川上村です。
��000本の苗木を手入れして百年がかりで一本の銘木に育て上げます。
建築材にその地位を奪われましたが、最近また価値を見直されて来ました。
底と蓋(ふた)の一部は価格と材料不足のため、吉野郡の麓の材も使用します。
酒樽の場合、カビが最も発生し易い箇所は竹箍(たが)です。
内部に影響がないので、ビニール等で密封しなければ発生を防ぐ事が出来ます。
石油系化学物質は一切使用しないで江戸明治の手法に戻す事に致しました。
2010年11月1日
漬物樽(たる)の秋は何処へ行った?
今日から,いよいよ十一月です。
酒樽屋は俄然忙しくなります。
先日までの猛暑が嘘だったように、過ごしやすい秋を飛ばして突然の冬です。
そう言えば、どうやら日本は猛暑と厳冬、豪雨の三季になって、春と秋は数日だけという、
変形熱帯に移っているようです。
今年も、つけもの樽(たる)の季節になりましたが、これだけ野菜が高騰し品薄ですと、
生野菜が高級食材になってしまい、サラダも贅沢品になってしまいました。
漬物どころではなくなって来ても仕方がありません。
それでも、接着剤を使っていない吉野杉の木製樽で漬物を作ろうと思われる方々、
漬物大好きの方々には、野菜の価格は関係ないようです。
全国各地から、毎日のように注文を頂きます。
樽屋竹十も漬物樽(たる)の価格改定は少し先に見送りました。
2010年10月23日
連日の穴あき木製樽(たる)作り
特殊な木製樽(たる)の依頼が連日続きます。
今日は和菓子屋さんが材料を蒸す時に使う木製樽(たる)で、
やはり側面に直径48㎜の穴をあけて欲しいという依頼。
普通、木製樽(たる)に穴を開ける場合は出来上がってからで、
しかも、六分か八分の二種に決まっています。
今回は穴が大きいので、樽(たる)を作る前に堅そうな材料を選んで、
あらかじめ穴を開けておいてから、組み立てました。
和菓子の製造工程に於いて必ず木製樽(たる)でないといけないそうです。
今まで何十年使って来た木製樽(たる)に寿命が来て使用不能になったそうです。
この樽(たる)も、和菓子製造のどの工程で使われ、
使用方法について簡単な説明を受けましたが、
樽屋(たるや)はあくまで単なる作り手でしかありません。
実際の使い方の具体的な詳細は不明ですけれど、
他の容器ではなく、木製容器の木樽(たる)でなければならない事には違いはありません。
ただ、日本の伝統文化継承の一環の手助けになっている事には違いありません。
プラスチックや陶器、ガラスでは適さず、木製容器でなければならない業種は、
他にもたくさんあります。
2010年10月21日
酒樽屋の恩人 生田耕作氏の命日「鴨東忌」
生田耕作氏五十三歳の誕生日に、
御自宅から西へ歩き,川の畔にて撮影。背景は六甲山。
この頃、若き頃の樽屋の親方は同氏宅の近くに住んでいたので、
御影の御自宅や、御影市場の魚を覗きながら市場を通り抜けてサバト館編集室におしかけたり、のちに夫人となられる広政かをる氏や木水弥三郎氏と小料理屋「からさき」(現存せず)にご一緒したものでした。
近所の散策のお伴をしたり、フランス文学だけではなく、英米文学、
更に日本の近代文学から江戸漢詩に到るまで、お二人の仲睦ましい神戸時代に、
邪魔を承知でおしかけて、勝手弟子していた頃に学んだ事ごとが、
今では酒樽屋の親方の骨幹になっていて、忘れられない思い出になっております。
余った酒樽(さかだる)に蔵元から貰った酒を詰めて、何度かサバト館まで届けたりもいたしました。
この頃、神戸サバト館から多くの名著が上梓されました。
「初稿 眼球譚」(山本六三挿絵)「日夏訳サロメ」.........................................
2010年10月20日
露天風呂に木製樽を使う
今月は本当に変わった木製樽の依頼が続きます。
樽屋竹十が作る木製樽(タル)は全てが手作りのオーダーメイドですから、
殆どの依頼に応じる事が出来る訳です。
写真の木製樽は、ちょっと見ると漬物樽(タル)のようですが、
実は樽(タル)の横に大きな穴を開けて、湯を出し入れするそうです。
銭湯で使う事だけは知らされているのですが、詳細は不明です。
最初,二斗樽(タル)を注文して下さったのが、実際に現場に届くと大き過ぎるという事で、
急遽、一斗樽(タル)に変更。発送し直しました。
H.P.に実際のサイズを表記していても、現物を目にすると多き過ぎたり、小さ過ぎたりと、
交換せざるを得ないことが一年に一回はあります。
木製樽(タル)は日常的に目にするものではないので、仕方がありません。
酒樽屋と運送屋 木製樽(タル)を託す
2010年10月19日
酒樽屋は、頼まれれば、どんな特殊な樽(たる)も作る
高さが480㎜という、樽屋にとっては大変作りにくいサイズの樽です。
酒樽は容量の関係で、一斗樽(たる)、二斗樽(たる)、四斗樽(タル)の三種のみでしたから、
当然、使う材料も一尺一寸、一尺五寸、一尺八寸(約34センチ、約45センチ、56センチ)の三種のみです。
昔は「樽屋竹十」南の浜辺で丸太を挽き、乾かしておりましたが、
神戸市灘区に浜辺が無くなってしまった事もあり、
全ての作業を山の中で仕上げるようになりました。
そんな訳で約一尺六寸の樽(タル)を作るには、勿体ないのは承知で、
一番長い一尺八寸の樽丸を切断するしか術はないのです。
尚かつ、この細長い樽(タル)には、青い竹ではなく、
古色がかった古いタガを使って欲しいという要望にも応えました。
何度も試作品を送って、作り直しました。何度も断念しそうになり、
断りの電話も入れた程でしたが、完成すれば良い経験になりました。
写真の完成品の手前に見える樽(タル)が一尺五寸で作った二斗樽(タル)、
向こう側に見える樽(タル)が一尺八寸で拵えた四斗樽(タル)です。
2010年10月16日
酒樽屋 「一日カフェ」へ行く
大阪の中崎町で秋の日曜日に、一日だけのカフェがオープンします。
その名も[BAMBI(バンビ)] 伝説の神戸にあったジャズ喫茶とは関係ありません。
��人のフードコーディネーターが集まって、企画を練った催しなのです。
「ケーク・サレプレート」(ケーク・サレ2種+デリ2種+スープ+ドリンク 1,000円)が
樽屋の親方お薦めの一品です。
オリジナルドリンク、各種ドリンク、スイーツなどなども用意されている予定。
ONE DAY CAFÉ BAMBI
大阪市北区中崎町西1−6−22
��0:00〜19:00
2010年10月10日
酒樽屋が、ことのほか贔屓の小村雪岱 展
「筑波」部分
雪岱ゆかりの「泉鏡花記念館」に於いて、
「小村雪岱 幻影の美を描く」と題す特別展が開催中。
十月の前期、11月の後期とで作品が入れ替わります。
同館所蔵の生田コレクションの装丁画を中心に、先に開催していた、埼玉県立美術館蔵の版画が加わります。
没後七十年ということで、若い頃に勤めていた資生堂のミュージアムからはじまり、
雑誌の特集や展覧会が続いて、どれも人気を博しましたが、金澤で一旦終了ということでしょうか。
酒樽屋の親方は丁度、家業が忙しくなる時期なので、出かける事が出来ないのが残念です。
雪岱という雅号は鏡花の命名。
雪岱の著作『日本橋檜物町』所収「泉鏡花先生のこと」を読むと
鏡花と雪岱の深い関係が良く判ります。
「私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。
久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀歌人として知られた方で、娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。
当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいすず子夫人を伴って御出になった時、白面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象としては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡てを蔽っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を堅持し得られたものと思われます。
先生が生物(なまもの)を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何なる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子の一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
先生の熱燗はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
生物以外に形の悪いもの、性の知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚しましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣がついていたから変だとは思ったが——」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました。
またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙と聞いて先生はびっくりし、懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「とんだことをした」と、蒼くなっておられた時のことも今に忘れません。
好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たものでした。
食物の潔癖に次いで先生の出不精もよくいわれますが、これは一つには犬を大変怖がられたためもありました。もし噛みつかれて狂犬病になり、四ッん這いでワンワンなんていう病気にでもなっては大変だということからの恐怖ですが、それだけに狂犬病については医者もおよばないくらいに良く調べて知っておられました。犬の怖い先生は歩いては殆ど外出されず、そのために一々車を呼んで出歩かれました。
雷と船も大変嫌がられましたが、これも神経的に冒険や危険に近づくことを警戒される結果と思われます。
神仏に対する尊敬の念の厚かったことは、生来からと思われますが、神社仏閣の前では常に土下座をされて礼拝されました。私などお伴をして歩いている時に、社の前で突然土下座をされるので、先生を何度踏みつけようとしたか知れませんでした。宮城前ではどんなに乱酔されていても、昔からこの礼を忘れられたことはなく、まことにその敬虔な御様子には頭が下がりました。
師の尾崎紅葉先生に対しても、全く神様と同様に絶対の尊敬と服従で奉仕されたそうで、三十年来、お宅の床の間には紅葉先生の写真を飾ってお供物を欠かされませんでした。
世間では鏡花先生のを大変江戸趣味人のように思っているようですが、なるほど着物などは奥さんの趣味でしょうか、大変粋でしたが、決して「吹き流し」といった江戸ッ児風の気象ではなく、あくまで鏡花流の我の強いところがありました。
趣味としては兎の玩具を集めておられて、これを聞いて方々から頂かれる物も多く、大変な数でした。
お仕事は殆ど毛筆で、机の上に香を焚かれ、時々筆の穂先に香の薫りをしみ込ませては原稿を書かれていたと聞きます。
さすがに文人だけに文字を大切にされたことは、想像以上で、どんなつまらぬ事柄でも文字の印刷してある物は絶対に粗末に出来ない性質で、御はしと刷ってある箸の袋でも捨てられず、奥さんが全部丁重に保存しておられたようで、時々は小さな物は燃やしておられました。誰でも良くやる指先で、こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかないといかんと仰言るのです。ですから先生の色紙なども数は非常に少なく、雑誌社に送った原稿なども、校正と同時に自分の手元においてお返しにならなかったように聞いております。
煙草は子供のころからの大好物だそうで、常に水府を煙管で喫っておられました。映画なども昔はよく行かれたそうですが、煙草が喫えなくなってからは、不自由なために行かれなくなりました。
御著書の装幀は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は使えませんでした。
このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬めども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目ではなかったのでした。
あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靭に生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました。」
雪岱ゆかりの「泉鏡花記念館」に於いて、
「小村雪岱 幻影の美を描く」と題す特別展が開催中。
十月の前期、11月の後期とで作品が入れ替わります。
同館所蔵の生田コレクションの装丁画を中心に、先に開催していた、埼玉県立美術館蔵の版画が加わります。
没後七十年ということで、若い頃に勤めていた資生堂のミュージアムからはじまり、
雑誌の特集や展覧会が続いて、どれも人気を博しましたが、金澤で一旦終了ということでしょうか。
酒樽屋の親方は丁度、家業が忙しくなる時期なので、出かける事が出来ないのが残念です。
雪岱という雅号は鏡花の命名。
雪岱の著作『日本橋檜物町』所収「泉鏡花先生のこと」を読むと
鏡花と雪岱の深い関係が良く判ります。
「私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。
久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀歌人として知られた方で、娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。
当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいすず子夫人を伴って御出になった時、白面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象としては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡てを蔽っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を堅持し得られたものと思われます。
先生が生物(なまもの)を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何なる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子の一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
先生の熱燗はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
生物以外に形の悪いもの、性の知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚しましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣がついていたから変だとは思ったが——」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました。
またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙と聞いて先生はびっくりし、懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「とんだことをした」と、蒼くなっておられた時のことも今に忘れません。
好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たものでした。
食物の潔癖に次いで先生の出不精もよくいわれますが、これは一つには犬を大変怖がられたためもありました。もし噛みつかれて狂犬病になり、四ッん這いでワンワンなんていう病気にでもなっては大変だということからの恐怖ですが、それだけに狂犬病については医者もおよばないくらいに良く調べて知っておられました。犬の怖い先生は歩いては殆ど外出されず、そのために一々車を呼んで出歩かれました。
雷と船も大変嫌がられましたが、これも神経的に冒険や危険に近づくことを警戒される結果と思われます。
神仏に対する尊敬の念の厚かったことは、生来からと思われますが、神社仏閣の前では常に土下座をされて礼拝されました。私などお伴をして歩いている時に、社の前で突然土下座をされるので、先生を何度踏みつけようとしたか知れませんでした。宮城前ではどんなに乱酔されていても、昔からこの礼を忘れられたことはなく、まことにその敬虔な御様子には頭が下がりました。
師の尾崎紅葉先生に対しても、全く神様と同様に絶対の尊敬と服従で奉仕されたそうで、三十年来、お宅の床の間には紅葉先生の写真を飾ってお供物を欠かされませんでした。
世間では鏡花先生のを大変江戸趣味人のように思っているようですが、なるほど着物などは奥さんの趣味でしょうか、大変粋でしたが、決して「吹き流し」といった江戸ッ児風の気象ではなく、あくまで鏡花流の我の強いところがありました。
趣味としては兎の玩具を集めておられて、これを聞いて方々から頂かれる物も多く、大変な数でした。
お仕事は殆ど毛筆で、机の上に香を焚かれ、時々筆の穂先に香の薫りをしみ込ませては原稿を書かれていたと聞きます。
さすがに文人だけに文字を大切にされたことは、想像以上で、どんなつまらぬ事柄でも文字の印刷してある物は絶対に粗末に出来ない性質で、御はしと刷ってある箸の袋でも捨てられず、奥さんが全部丁重に保存しておられたようで、時々は小さな物は燃やしておられました。誰でも良くやる指先で、こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかないといかんと仰言るのです。ですから先生の色紙なども数は非常に少なく、雑誌社に送った原稿なども、校正と同時に自分の手元においてお返しにならなかったように聞いております。
煙草は子供のころからの大好物だそうで、常に水府を煙管で喫っておられました。映画なども昔はよく行かれたそうですが、煙草が喫えなくなってからは、不自由なために行かれなくなりました。
御著書の装幀は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は使えませんでした。
このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬めども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目ではなかったのでした。
あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靭に生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました。」
2010年10月4日
酒樽屋のお八つ 其の參拾資 白梟焼き
梟(ふくろう)は、「不苦労」、「福朗」、「福籠」、「福老」などに通じると言われ、
「蝙蝠」と同じように縁起の良い動物だと言われています。とりわけ、白い梟は森の守り神だという説も。
材料は無添加、種子島のBROWN SUGARに大島の塩が売り物ですが、味は普通。
「我が家はふくろう株式会社」
10:00~18:00 水曜日定休
神戸市灘区原田通1丁目2−19
王子動物園の向かい
2010年10月1日
酒樽屋の秋
越後、上原酒造の軒先
今日は酒の日だそうで、各地で催しがあります。
「酒」という漢字の「酉」が十二支の十番目だからという無理なこじつけのようですけれど、
全く意味がない訳ではなく、「酉」という漢字は壷の形を現す象形文字。
壷はもちろん酒壷を意味します。
この時期には新米が収穫され、十月は新酒が醸される月でもあります。
明治期に制定された酒造法では10月から翌年九月までを酒造年度と定めました。
そんな訳で十月一日を「酒造元旦」と呼ぶ風習が一部の酒造家達の間には残っているようです。
「樽屋」の動きも変わります。
十月は各地で秋祭りがあったり、結婚式が増えたりして、酒樽の注文が集中します。
年始から、味噌樽(みそたる)、樽太鼓(たるたいこ)と御注文が続いておりましたが、
先日までの記録的な猛暑が嘘だったように、急に過ごしやすい気候になったからでしょうか、
漬物樽(つけものたる)また気温が下がったので、もう一度「味噌樽」。そして、本流の酒樽(さかだる)の製造に樽屋(たるや)の仕事も移行して行きます。
お陰で一年を通じて「樽」を作り続ける事が出来る訳ですが、
数年前までは、11月〜12月に酒樽の注文が集中して、夏期は主に底や蓋(ふた)の製作に明け暮れておりました。
今日は酒の日だそうで、各地で催しがあります。
「酒」という漢字の「酉」が十二支の十番目だからという無理なこじつけのようですけれど、
全く意味がない訳ではなく、「酉」という漢字は壷の形を現す象形文字。
壷はもちろん酒壷を意味します。
この時期には新米が収穫され、十月は新酒が醸される月でもあります。
明治期に制定された酒造法では10月から翌年九月までを酒造年度と定めました。
そんな訳で十月一日を「酒造元旦」と呼ぶ風習が一部の酒造家達の間には残っているようです。
「樽屋」の動きも変わります。
十月は各地で秋祭りがあったり、結婚式が増えたりして、酒樽の注文が集中します。
年始から、味噌樽(みそたる)、樽太鼓(たるたいこ)と御注文が続いておりましたが、
先日までの記録的な猛暑が嘘だったように、急に過ごしやすい気候になったからでしょうか、
漬物樽(つけものたる)また気温が下がったので、もう一度「味噌樽」。そして、本流の酒樽(さかだる)の製造に樽屋(たるや)の仕事も移行して行きます。
お陰で一年を通じて「樽」を作り続ける事が出来る訳ですが、
数年前までは、11月〜12月に酒樽の注文が集中して、夏期は主に底や蓋(ふた)の製作に明け暮れておりました。
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