2006年3月31日
樽太鼓(たいこだる)と太鼓樽(たるだいこ)
「樽太鼓」は楽器や椅子などに使われますが、樽屋では「太鼓樽」といえば、竹のタガを入れる前のこの状態を、「太鼓」または「太鼓樽」と呼び慣わします。
(革を張った楽器の太鼓を一般に「樽太鼓」と言うこともあります)
樽屋では、暇な時期に「太鼓樽」を沢山作り置きします。
「たるや竹十」では「太鼓樽」の他に「樽太鼓」も作って置かねばなりません。
樽太鼓に使う竹は冬に切った物でないと強度の点でダメなのです。
ここまでが腕の見せ所。
殆ど完成に近いのですが、このあと、竹を巻き、タガを締めていくという力仕事が待っていて、真冬でも汗びっしょりになります。
本日、樽太鼓(たるたいこ)が沢山、出荷されました。
三月と四月は樽太鼓を音楽の授業に取り入れられている学校から、樽太鼓の注文がよく来ます。
樽太鼓が学校に届くと、子供たちは大喜び。やっぱり新しい樽太鼓は音が良いのです。
2006年3月27日
樽屋 突然の桜の開花に驚く
東京は、二日前の寒雨とうって変わり、桜満開!
丁度日曜日ですから、都庁前の新宿公園では早々とブルーシートで席取りの準備をする人たちがゾロゾロ。
杉樽を持って行ってくれるかな?
このブルーシートというもの、桜にとって甚だ迷惑な存在なのです。
2006年3月26日
樽屋 かわほり堂に行く
東京神田猿楽町にある、謎の古書店「かわほり堂」に行って来ました。
初めての人は探しにくい所にあります。そして、たいそう入りにくく、その上、土曜日だけしか開いていません。開店から数年なのに、見事に江戸漢詩の和本と花柳文学の書物が充実していました。
入り口の蝙蝠の絵は金子國義さんによるものです。
親方は鏡花本を二冊、樽屋の女房はピカソ挿画の「変身譚」を購うことになりました。
2006年3月24日
樽屋 A BIGGER BANG TOURに行く
樽太鼓ではなく、チャーリー・ワッツがグレッチの太鼓とシンバルを叩くのを聴きに行きました。
癌、交通事故と一年に四回の入院というハンディなんて、微塵も感じさせないグルーヴのデカい塊!
たるや竹十は以前、宇崎竜童さんの太鼓バンド竜童組、そして泉谷しげる氏率いるユニット「LOOSER」の太鼓番、村上ポンタ秀一氏に、それぞれ四斗の樽太鼓を送った事があるのですが、残念ながら、本番では使われませんでした。
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2006年3月23日
漬物好きの樽屋の親方は京漬物がお気に入り
「高倉屋」さんの漬物です。
京、錦市場に店があります。
高倉屋さんの店頭には「たるや竹十」の漬物樽が並んでいる筈です。
ほかの漬物屋さんは皆さん、漬物樽の上にビニールを敷いて商品を並べておられますが、見栄えが悪いだけではなく、呼吸している杉樽の効力が発揮できません。
高倉屋さんだけは直接並べられています。
漬物たちと樽は喜んでいることでしょう。
2006年3月22日
花見前の樽屋は大忙し
この時期、樽屋の竹十は四斗樽や、二斗樽をたくさん作って各地に発送します。
三月も半ばを過ぎると、各蔵元は花見に持って行く酒樽の準備にかかるのです。
一般のお客さんも注文に来られて、今の樽屋は年末に次ぐ繁忙期です。
昔は、桜見といえば酒樽を持参することが風習でした。
今ではドイツ人の真似をしてビールを呑む人が増えましたが、
日本人にとって桜といえばやっぱり清酒なのです。
樽屋 春を食す (其の二)
先日、神戸市長田区の丸五市場で「イカナゴくぎ煮コンテスト」が開催され、同区在住の某夫人の作品が最優秀賞に選ばれたそうです。
��0年間守り続けた姑秘伝の味がグランプリに輝き、商品化されました。
地元の珍味販売業者が、その伝来のレシピにもとづき、100キロ限定で販売される予定。
この時期、同種の催しが、神戸各地で開かれますけれど、商品化は珍しい事です。
写真↓は樽屋のおやかたが酒粕と交換して入手した貴重な品。
くぎ煮発祥の地、垂水区在住、佐方夫人の傑作
高嶋夫人作(樽屋日誌3月16日参照)と甲乙付け難し
これは、錆びた本当の鉄釘。
子供の頃、ひもを付けた磁石で路に落ちている古釘を集めて屑鉄屋に持って行き、お小遣いにしたものです。
2006年3月20日
樽屋のお向かいコンサートの夕べ
菜の花の咲く頃、樽屋の向かいの資料館でコンサートが催されます。
レクイエムロードチャリティコンサートという名で毎年催されてきました。
今日も日没を待って、阪神大震災の際、「たるや竹十」の地元、神戸市灘区で亡くなった934人と同じ数の行灯に火が入れられました。
なだ区の花は、なの花なのです。
奥に見えているのが「たるや竹十」です。
地元の子供たちが作った行灯を灯すのも、この菜の花から採集した菜種油です。
コンサートも半ばを過ぎ、裸足の蔵人たちによる「酒造り唄」が披露されました。
「秋洗い唄」という桶や樽を洗う際に唄ったもので、勿論、アカペラです。
会場近くを流れる都賀川沿いにも、この行灯が海まで並びました。
2006年3月18日
樽屋は桶の輪替もする
ひと昔前までは、どの町にも自転車に割り竹を積んだ「輪替屋」という職人が市中をまわって、各家庭の毀れた「盥(たらい)」を修理したり、「寿司半切(ちらし寿司を作る際は必需品)」や「風呂桶」などの傷んだ竹や銅線の輪を替えたりしていました。
プラスチック製品の登場と中国産の安価な製品の到来で職人が減り、今では全国でも「輪替屋」は皆無でしょう。
近所に桶屋さんが残っている町は幸運です。
本来、樽屋がする仕事ではないのですが、
そんな訳で「たるや竹十」は、数年前から桶の修理も手がけるようになりました。
竹を細く割って薄く削ぐ作業が至難の業なのです。
竹のタガに替えるだけで、ぐっと雰囲気が出てきました。
出来上がった桶と、右は最初に入っていてた銅もどきの「たが」
最近は、殆ど銅線をねじる職人はいなくなり、
既製品の、ねじられた物を溶接したりしているので修理は不可能です。
2006年3月17日
樽屋が全盛期だった頃の神戸の港
昔は神戸の中心は兵庫付近でしたから、図は今の三ノ宮よりもう少し西側の港でしょう。
「神戸市立博物館蔵」
酒屋、たる屋の蔵が建ち並ぶ地域。「たるや竹十」付近の遠浅の海。
写真の小舟に新酒の入った杉樽を載せ、この沖に停泊している樽廻船に積み込んで江戸へ下っていきました。
ご存知「メリケン波止場」。
今は味気なくなってしまいましたが、時折、ビルのように巨大な客船が入港して、
見物客が大勢押し寄せます。対岸にはコンテナヤードが見えます。
大きな機械を使い、一夜で荷役を終えてしまうので、外国人の船員も少人数ですし、逗留することなく次の国へ出航し、外人バァで幾夜も明かすという風習も次第になくなってしまったのです。
同じ「メリケン波止場」の明治期発行彩色絵葉書。
少し前までは居留地の異人館を除くと、こんな風情でした。
樽屋 春を食す
今日は知人から「いかなごの釘煮」を頂戴したので、夕餉の御飯がすすみます。
うちは女房が京都人なので「いかなご」はこしらえず、神戸の名人の作品が食卓に上るのです。
「いかなご」は漢字では玉筋魚。
スズキ目の魚で、出来上がりが錆びた釘のようなので「釘煮」と言います。
神戸では春を告げる風物詩のひとつで、露地を歩いていると、どの家の台所からも「いかなご」をつくっている香りが漂ってきます。
決して出来上がった物を買う人はいません。(最近はスーパーマーケットにも既製品が出現)
どこのオバちゃんも自分のレシピで何キロも作って友人に送ったりします。
ですからスーパーや市場は,この時期になると「いかなごコーナー」が出来、郵便局では配達用の専用パックを無料で配布します。
活きのいい「いかなご」を求めて、魚屋にオバちゃんの行列が出来るのは、
他府県の人から見たら異常事態です。
むかしは、いかなごも杉樽に入れて明石港や垂水港から町に運んでおりました。
写真は高嶋夫人の名作
2006年3月15日
「神戸太鼓」という名の「樽太鼓」(たるたいこ)
ある宵、神戸の元町通りを散歩していたら、何やら祭りらしく、諏訪山にある神戸小学校の生徒たちも参加していました。彼らが叩いている樽太鼓は「たるや竹十」が作った杉樽の太鼓ではありませんか。
元町通りの一本南にあるのが、南京町(中華街)。
いまでこそコジャレたお店が増え、人通りも増えましたが、かつては外人バアが立ち並び、怪しげな店の林立する夜道の漫歩が憚れるような異空間だったのです。
いまは華やかな中華街も、昭和40年代までのそこは入るのに勇気がいるような汚い料理店が数軒並んでいるだけで、横浜の同名の地域とは比較にならない所だったのです。
神戸市の恥部のひとつでしたが、いまでは一大観光地となり、さらにコギタナイ雑居ビルの中を、それ風に改造した小ブチック村には他府県からわざわざ買い物にやってくる程に変貌しました。
地震の翌日にはふだん通り営業した強いエネルギーを持った町でもあるのです。
「神戸太鼓」とは神戸小学校の命名だそうです
2006年3月14日
樽屋が作ったバケツは「杉バケツ」
杉の桶に植物を活けると、昨日の穴子と同様、信じられないほど長持ちして元気。
しかも水が腐りにくいのです。
持ち運びやすいように、竹の取手を付けました。
さる御屋敷を訪ねた折、門に水を撒く時にプラスチックのバケツを使っておられ、余りに無粋なので、樽屋としては、見るに見かね、「杉バケツ」を作って差し上げました。
以来、花器として、また、手水鉢として、お茶会にも登場する位に出世しました。
切花とは植物同士ですから、相性はぴったり。
人間国宝の先生方が焼かれたどんな陶磁器よりも、ラリックのフラワーベースより花々は喜んでいる筈です。
ホワイトディには、お花も良いのではないでしょうか。
挿花は奥田美代子氏
一週間ほどで、こんなに根が生えてくるなんてビックリ!
2006年3月13日
樽屋 焼穴子を食す
穴子は苦手だったのですが、到来物に焼穴子。
清酒を振りかけて焙り、こわごわ食べてみましたら、スコブル美味!
今まで食べなかった数十年が惜しい。それとも、ここの焼穴子が特別なのかな。
生きた鰻や穴子を保管しておく時に老舗では杉樽に、きれいな水をはって用います。
魚函もプラスチックや発泡スチロールのものより、杉樽の方が鱗が取れないので長生きする訳です。
2006年3月12日
樽屋 醤油メーカーの映像取材を受ける
先日、ヒガシマル醤油のT氏が来店。「うすくち醤油の歴史」のヴィデオ撮影隊がやってきました。
目的は、吉野杉の原木がどのようにして樽丸(樽の材料)になって行くかを調べるため、
あちこち訪ね歩いた結果、「たるや竹十」に到った由。樽丸についての仔細は後日UPします。
醤油も、昭和40年までは杉樽を用いて流通していました。当時、醤油樽には赤味材、酒樽には甲付と決まっていたのですが、、それ以降は特級酒(今の特撰)には甲付、一級、二級酒(今の上撰、佳撰)には赤味を使うようになったのです。
現代でも甲付のみを踏襲している蔵もあれば、赤味に統一した蔵など、さまざまです。
かつて、ヒガシマル醤油では社内に樽工場を持ち、昭和初期には50人もの樽職人たちが働いておりました。醤油製造工場の職人は40人だったそうですから、いかに運搬容器としての樽の需要が多かったかを窺い知ることが出来ます。
当時は樽職人が行き来していたので、「たるや竹十」とも密接な関係にありました。
目的は、吉野杉の原木がどのようにして樽丸(樽の材料)になって行くかを調べるため、
あちこち訪ね歩いた結果、「たるや竹十」に到った由。樽丸についての仔細は後日UPします。
醤油も、昭和40年までは杉樽を用いて流通していました。当時、醤油樽には赤味材、酒樽には甲付と決まっていたのですが、、それ以降は特級酒(今の特撰)には甲付、一級、二級酒(今の上撰、佳撰)には赤味を使うようになったのです。
現代でも甲付のみを踏襲している蔵もあれば、赤味に統一した蔵など、さまざまです。
かつて、ヒガシマル醤油では社内に樽工場を持ち、昭和初期には50人もの樽職人たちが働いておりました。醤油製造工場の職人は40人だったそうですから、いかに運搬容器としての樽の需要が多かったかを窺い知ることが出来ます。
当時は樽職人が行き来していたので、「たるや竹十」とも密接な関係にありました。
2006年3月11日
樽屋、限定一丁の樽をつくる
かつて「お祝い」といえば「清酒」。
即ち一升瓶という時代もあったのですが、年々減ってきています。
同じ一升入りでも、「たるや竹十」のお奨めは「杉樽」です。
この杉樽は、私の周辺で一番人気なのですけれど、難を言えば中身より容器の方が高価になってしまう事。
それでも、限定一枚のオリジナルラベルを貼った、片手で持てる杉樽は、お祝いや贈り物等に大変喜ばれます。
高さは僅か16センチ、直径21センチ、このラベルはお客様の手書きによるものです。
2006年3月10日
樽屋の作った「ちりばこ」(樽屋は何でも作らなければならない)
今日の製作依頼は「ちりばこ」です。案外、気の利いた「塵函」って無いものです。
なるべく、古い感じでという注文だったので、倉庫から昔の材料を探し出してきました。
これも、三つ作るためにだけ道具を拵えました。
竹だけは新しい物を使わなければなりません。
このビニール袋が樽屋としては不満なので、これが見えないように後日、少し改良する予定です。
「たるや竹十」だけの裏技があるのです。
今まで、無粋なプラスチックの「ごみばこ」を使っていたので随分、お店の雰囲気が変わりました。
樽屋は小さい「樽太鼓」も作ることが出来る
某市の幼稚園から依頼があって、一番小さい樽太鼓を16個作りました。
樽は小さくなるほど、作るのが難しくなります。道具も一から誂えなければなりません。
次回の注文が、いつになるか分からないのですが、小さいから少し安い値段に設定せざるを得ません。随分贅沢な話です。
小さい樽太鼓は小学校の低学年の音楽授業にも使われます。
居酒屋などの椅子にも使われます。
大きい物をつくる方がずっと楽です。作る事が出来ない樽屋の職人さんも多いそうです。
こうして、トラックに積み終わり、運送会社に託すと、ほっとします。
子供たちも、きっと喜んでくれる事でしょう。
2006年3月8日
小学校の音楽の授業は樽太鼓(たるたいこ)
各地の幼稚園、小学校で「樽太鼓」が生徒たちに喜ばれています。
神戸市の小学校は殆ど、音楽の授業に樽太鼓を使ってくれています。
山梨の石和南小学校や兵庫県の氷上養護学校、また川崎市の小学校でも「樽太鼓(たるたいこ)」を使ってくれています。
「たるや竹十」の「樽たいこ」は何年も良い音が出るように特別な方法で作っております。
痛んできましたら、いつでも修理が出来ますから、釘やボンドは使用しないで下さい。
また、使う前に水をかける方法も避けてください。あとから樽のタガがゆるんで来ます。
写真は神戸小学校
清酒を杉樽に詰口する(樽屋の仕事ではない)
樽酒はタンクから直接、生酒を樽(たる)に入れるのではなく、酒税の関係から面倒ですが、皆さんがいつも目にする一升瓶から一本ずつ入れるのです。30年位前は大桶に太いホースを繋いで樽詰していました。
勿論、沢山こぼれたり、あふれたりします。細かいことは気にしない大らかな時代だったのですね。
でも清酒を胃の中に入れて帰る事は許されますが、瓶などに入れて蔵から出ると、即、脱税になる事は今も昔も変わりません。
先ず、一升瓶の清酒を用意します。今日は二斗樽(36リットル)ですから、瓶は20本必要です。
むかしは一升瓶は木函の10本入りでしたが、今はプラスチックの6本入りなので、よく計算違いをするそうです。この場合も6本入り3ケース+2本。
碁盤目に穴の空いた木製の道具(名前?)を用意します。小瓶用など各種あり。
他の道具と同様よく使い込んだ物の方が手になじみます。
こんな大きな漏斗を使います。昔は杉桶の物を使っていました。
左に見える黒い棒状のものは、一升瓶の王冠抜きの道具。鉄パイプを使いやすいように加工しただけの物です。
一升瓶を順次、「板格子」の孔に突き注して、お酒を詰めていく訳です。
一度に10本位突き注すので、空瓶を抜く順番を間違えると、ひっくり返って、また大事な清酒がこぼれてしまいます。瓶が割れた時などと同様、税制上「亡失」と書いて、こぼれた酒も税務署に提出しなければなりません。
樽に酒を詰める行為は酒税法等の問題から造り酒屋にのみ認められている事なので、酒販の免許を持った一般の小売店にも許されていません。
たるや竹十
2006年3月5日
樽屋、杉樽を出荷する
��月26日にエントリーした東京、大塚の「江戸一さん」から、注文が入ったので、早速、杉樽を届けました。
これは、「仮巻き」といって菰を巻かない裸の樽です。正式には薄い菰をくるんでいましたが、数年前から、それも略して本当の「裸樽」に縄を「三つ輪がけ」して出荷しています。樽屋にとっては折角つくった樽をコモで隠されるのは長年の風習とはいえ、不本意なことです。
菰屋さんには悪いのですが「杉樽たる」は、やはり木目の美しい吉野杉と青竹を見てもらいたいものです。
「江戸一さん」以外ですと季節限定ですが、横浜の「キンパイ酒店」でも杉樽の樽酒を呑むことが出来ます。
どちらの居酒屋さんでも、使い終わった杉樽は近隣の小学校などに引き取られていくそうです。
樽太鼓として、第二の人生をおくる訳です。
ただし一度、酒を入れた杉樽は乾燥してしまって、楽器としては、余り良い音は出ません。
↓のように竹のタガを締め直してやらないと半年位の命です。
2006年3月3日
樽屋は樽太鼓(たるたいこ)の季節になりました。
少し、暖かくなってまいりました。
お歳暮用の杉樽、お正月の酒樽、さらに旧正月の為の樽酒・・・・・・・・などの出荷が終わり、
春のお花見に使う一斗樽や、四斗樽で容量が一斗という特殊な樽をつくるまでの空いた期間に樽屋は「樽太鼓」たるだいこ(太鼓樽とは別物)をまとめて作り置きしておきます。
四月の新学期に幼稚園や小学校の音楽の授業に使うからです。
高さや雰囲気が丁度いいので居酒屋の椅子にも、しばしば使われます。
樽は本来、液体を入れる容器として確立した物ですから、風と光、そして温度湿度の変化に弱いのですが「たる太鼓」はメンテナンスさえ、しっかりしていれば、数年は楽器として使用できます。
それでも蓋が、ささくれだって来たりした時には竹のタガごと蓋を新品に取り替えることが出来ます。
費用は新品の半額位かかりますけれど、また何年も太鼓として使う事ができます。
��ANCIAのレストアと同じ作業をします。バラバラになっていても復元させますから、ご安心下さい。
たるや竹十
写真は一斗樽(18リットル)、高さも直径も約34センチです。
2006年3月1日
樽屋のおやかたはロードレーサーも大好き(自転車中毒!)
トリノのオリンピックも無事終了。冬季は自転車競技がないので、ちょっと不満。
日誌上のトリノの話題も,しばらく休憩。
自転車といえばミラノなのですが、GIOSだけはトリノ産なのです。
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