2010年10月23日
連日の穴あき木製樽(たる)作り
特殊な木製樽(たる)の依頼が連日続きます。
今日は和菓子屋さんが材料を蒸す時に使う木製樽(たる)で、
やはり側面に直径48㎜の穴をあけて欲しいという依頼。
普通、木製樽(たる)に穴を開ける場合は出来上がってからで、
しかも、六分か八分の二種に決まっています。
今回は穴が大きいので、樽(たる)を作る前に堅そうな材料を選んで、
あらかじめ穴を開けておいてから、組み立てました。
和菓子の製造工程に於いて必ず木製樽(たる)でないといけないそうです。
今まで何十年使って来た木製樽(たる)に寿命が来て使用不能になったそうです。
この樽(たる)も、和菓子製造のどの工程で使われ、
使用方法について簡単な説明を受けましたが、
樽屋(たるや)はあくまで単なる作り手でしかありません。
実際の使い方の具体的な詳細は不明ですけれど、
他の容器ではなく、木製容器の木樽(たる)でなければならない事には違いはありません。
ただ、日本の伝統文化継承の一環の手助けになっている事には違いありません。
プラスチックや陶器、ガラスでは適さず、木製容器でなければならない業種は、
他にもたくさんあります。
2010年10月21日
酒樽屋の恩人 生田耕作氏の命日「鴨東忌」
生田耕作氏五十三歳の誕生日に、
御自宅から西へ歩き,川の畔にて撮影。背景は六甲山。
この頃、若き頃の樽屋の親方は同氏宅の近くに住んでいたので、
御影の御自宅や、御影市場の魚を覗きながら市場を通り抜けてサバト館編集室におしかけたり、のちに夫人となられる広政かをる氏や木水弥三郎氏と小料理屋「からさき」(現存せず)にご一緒したものでした。
近所の散策のお伴をしたり、フランス文学だけではなく、英米文学、
更に日本の近代文学から江戸漢詩に到るまで、お二人の仲睦ましい神戸時代に、
邪魔を承知でおしかけて、勝手弟子していた頃に学んだ事ごとが、
今では酒樽屋の親方の骨幹になっていて、忘れられない思い出になっております。
余った酒樽(さかだる)に蔵元から貰った酒を詰めて、何度かサバト館まで届けたりもいたしました。
この頃、神戸サバト館から多くの名著が上梓されました。
「初稿 眼球譚」(山本六三挿絵)「日夏訳サロメ」.........................................
2010年10月20日
露天風呂に木製樽を使う
今月は本当に変わった木製樽の依頼が続きます。
樽屋竹十が作る木製樽(タル)は全てが手作りのオーダーメイドですから、
殆どの依頼に応じる事が出来る訳です。
写真の木製樽は、ちょっと見ると漬物樽(タル)のようですが、
実は樽(タル)の横に大きな穴を開けて、湯を出し入れするそうです。
銭湯で使う事だけは知らされているのですが、詳細は不明です。
最初,二斗樽(タル)を注文して下さったのが、実際に現場に届くと大き過ぎるという事で、
急遽、一斗樽(タル)に変更。発送し直しました。
H.P.に実際のサイズを表記していても、現物を目にすると多き過ぎたり、小さ過ぎたりと、
交換せざるを得ないことが一年に一回はあります。
木製樽(タル)は日常的に目にするものではないので、仕方がありません。
酒樽屋と運送屋 木製樽(タル)を託す
2010年10月19日
酒樽屋は、頼まれれば、どんな特殊な樽(たる)も作る
高さが480㎜という、樽屋にとっては大変作りにくいサイズの樽です。
酒樽は容量の関係で、一斗樽(たる)、二斗樽(たる)、四斗樽(タル)の三種のみでしたから、
当然、使う材料も一尺一寸、一尺五寸、一尺八寸(約34センチ、約45センチ、56センチ)の三種のみです。
昔は「樽屋竹十」南の浜辺で丸太を挽き、乾かしておりましたが、
神戸市灘区に浜辺が無くなってしまった事もあり、
全ての作業を山の中で仕上げるようになりました。
そんな訳で約一尺六寸の樽(タル)を作るには、勿体ないのは承知で、
一番長い一尺八寸の樽丸を切断するしか術はないのです。
尚かつ、この細長い樽(タル)には、青い竹ではなく、
古色がかった古いタガを使って欲しいという要望にも応えました。
何度も試作品を送って、作り直しました。何度も断念しそうになり、
断りの電話も入れた程でしたが、完成すれば良い経験になりました。
写真の完成品の手前に見える樽(タル)が一尺五寸で作った二斗樽(タル)、
向こう側に見える樽(タル)が一尺八寸で拵えた四斗樽(タル)です。
2010年10月16日
酒樽屋 「一日カフェ」へ行く
大阪の中崎町で秋の日曜日に、一日だけのカフェがオープンします。
その名も[BAMBI(バンビ)] 伝説の神戸にあったジャズ喫茶とは関係ありません。
��人のフードコーディネーターが集まって、企画を練った催しなのです。
「ケーク・サレプレート」(ケーク・サレ2種+デリ2種+スープ+ドリンク 1,000円)が
樽屋の親方お薦めの一品です。
オリジナルドリンク、各種ドリンク、スイーツなどなども用意されている予定。
ONE DAY CAFÉ BAMBI
大阪市北区中崎町西1−6−22
��0:00〜19:00
2010年10月10日
酒樽屋が、ことのほか贔屓の小村雪岱 展
「筑波」部分
雪岱ゆかりの「泉鏡花記念館」に於いて、
「小村雪岱 幻影の美を描く」と題す特別展が開催中。
十月の前期、11月の後期とで作品が入れ替わります。
同館所蔵の生田コレクションの装丁画を中心に、先に開催していた、埼玉県立美術館蔵の版画が加わります。
没後七十年ということで、若い頃に勤めていた資生堂のミュージアムからはじまり、
雑誌の特集や展覧会が続いて、どれも人気を博しましたが、金澤で一旦終了ということでしょうか。
酒樽屋の親方は丁度、家業が忙しくなる時期なので、出かける事が出来ないのが残念です。
雪岱という雅号は鏡花の命名。
雪岱の著作『日本橋檜物町』所収「泉鏡花先生のこと」を読むと
鏡花と雪岱の深い関係が良く判ります。
「私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。
久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀歌人として知られた方で、娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。
当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいすず子夫人を伴って御出になった時、白面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象としては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡てを蔽っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を堅持し得られたものと思われます。
先生が生物(なまもの)を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何なる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子の一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
先生の熱燗はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
生物以外に形の悪いもの、性の知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚しましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣がついていたから変だとは思ったが——」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました。
またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙と聞いて先生はびっくりし、懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「とんだことをした」と、蒼くなっておられた時のことも今に忘れません。
好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たものでした。
食物の潔癖に次いで先生の出不精もよくいわれますが、これは一つには犬を大変怖がられたためもありました。もし噛みつかれて狂犬病になり、四ッん這いでワンワンなんていう病気にでもなっては大変だということからの恐怖ですが、それだけに狂犬病については医者もおよばないくらいに良く調べて知っておられました。犬の怖い先生は歩いては殆ど外出されず、そのために一々車を呼んで出歩かれました。
雷と船も大変嫌がられましたが、これも神経的に冒険や危険に近づくことを警戒される結果と思われます。
神仏に対する尊敬の念の厚かったことは、生来からと思われますが、神社仏閣の前では常に土下座をされて礼拝されました。私などお伴をして歩いている時に、社の前で突然土下座をされるので、先生を何度踏みつけようとしたか知れませんでした。宮城前ではどんなに乱酔されていても、昔からこの礼を忘れられたことはなく、まことにその敬虔な御様子には頭が下がりました。
師の尾崎紅葉先生に対しても、全く神様と同様に絶対の尊敬と服従で奉仕されたそうで、三十年来、お宅の床の間には紅葉先生の写真を飾ってお供物を欠かされませんでした。
世間では鏡花先生のを大変江戸趣味人のように思っているようですが、なるほど着物などは奥さんの趣味でしょうか、大変粋でしたが、決して「吹き流し」といった江戸ッ児風の気象ではなく、あくまで鏡花流の我の強いところがありました。
趣味としては兎の玩具を集めておられて、これを聞いて方々から頂かれる物も多く、大変な数でした。
お仕事は殆ど毛筆で、机の上に香を焚かれ、時々筆の穂先に香の薫りをしみ込ませては原稿を書かれていたと聞きます。
さすがに文人だけに文字を大切にされたことは、想像以上で、どんなつまらぬ事柄でも文字の印刷してある物は絶対に粗末に出来ない性質で、御はしと刷ってある箸の袋でも捨てられず、奥さんが全部丁重に保存しておられたようで、時々は小さな物は燃やしておられました。誰でも良くやる指先で、こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかないといかんと仰言るのです。ですから先生の色紙なども数は非常に少なく、雑誌社に送った原稿なども、校正と同時に自分の手元においてお返しにならなかったように聞いております。
煙草は子供のころからの大好物だそうで、常に水府を煙管で喫っておられました。映画なども昔はよく行かれたそうですが、煙草が喫えなくなってからは、不自由なために行かれなくなりました。
御著書の装幀は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は使えませんでした。
このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬めども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目ではなかったのでした。
あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靭に生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました。」
雪岱ゆかりの「泉鏡花記念館」に於いて、
「小村雪岱 幻影の美を描く」と題す特別展が開催中。
十月の前期、11月の後期とで作品が入れ替わります。
同館所蔵の生田コレクションの装丁画を中心に、先に開催していた、埼玉県立美術館蔵の版画が加わります。
没後七十年ということで、若い頃に勤めていた資生堂のミュージアムからはじまり、
雑誌の特集や展覧会が続いて、どれも人気を博しましたが、金澤で一旦終了ということでしょうか。
酒樽屋の親方は丁度、家業が忙しくなる時期なので、出かける事が出来ないのが残念です。
雪岱という雅号は鏡花の命名。
雪岱の著作『日本橋檜物町』所収「泉鏡花先生のこと」を読むと
鏡花と雪岱の深い関係が良く判ります。
「私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。
久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀歌人として知られた方で、娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。
当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいすず子夫人を伴って御出になった時、白面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象としては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡てを蔽っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を堅持し得られたものと思われます。
先生が生物(なまもの)を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何なる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子の一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
先生の熱燗はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
生物以外に形の悪いもの、性の知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚しましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣がついていたから変だとは思ったが——」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました。
またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙と聞いて先生はびっくりし、懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「とんだことをした」と、蒼くなっておられた時のことも今に忘れません。
好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たものでした。
食物の潔癖に次いで先生の出不精もよくいわれますが、これは一つには犬を大変怖がられたためもありました。もし噛みつかれて狂犬病になり、四ッん這いでワンワンなんていう病気にでもなっては大変だということからの恐怖ですが、それだけに狂犬病については医者もおよばないくらいに良く調べて知っておられました。犬の怖い先生は歩いては殆ど外出されず、そのために一々車を呼んで出歩かれました。
雷と船も大変嫌がられましたが、これも神経的に冒険や危険に近づくことを警戒される結果と思われます。
神仏に対する尊敬の念の厚かったことは、生来からと思われますが、神社仏閣の前では常に土下座をされて礼拝されました。私などお伴をして歩いている時に、社の前で突然土下座をされるので、先生を何度踏みつけようとしたか知れませんでした。宮城前ではどんなに乱酔されていても、昔からこの礼を忘れられたことはなく、まことにその敬虔な御様子には頭が下がりました。
師の尾崎紅葉先生に対しても、全く神様と同様に絶対の尊敬と服従で奉仕されたそうで、三十年来、お宅の床の間には紅葉先生の写真を飾ってお供物を欠かされませんでした。
世間では鏡花先生のを大変江戸趣味人のように思っているようですが、なるほど着物などは奥さんの趣味でしょうか、大変粋でしたが、決して「吹き流し」といった江戸ッ児風の気象ではなく、あくまで鏡花流の我の強いところがありました。
趣味としては兎の玩具を集めておられて、これを聞いて方々から頂かれる物も多く、大変な数でした。
お仕事は殆ど毛筆で、机の上に香を焚かれ、時々筆の穂先に香の薫りをしみ込ませては原稿を書かれていたと聞きます。
さすがに文人だけに文字を大切にされたことは、想像以上で、どんなつまらぬ事柄でも文字の印刷してある物は絶対に粗末に出来ない性質で、御はしと刷ってある箸の袋でも捨てられず、奥さんが全部丁重に保存しておられたようで、時々は小さな物は燃やしておられました。誰でも良くやる指先で、こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかないといかんと仰言るのです。ですから先生の色紙なども数は非常に少なく、雑誌社に送った原稿なども、校正と同時に自分の手元においてお返しにならなかったように聞いております。
煙草は子供のころからの大好物だそうで、常に水府を煙管で喫っておられました。映画なども昔はよく行かれたそうですが、煙草が喫えなくなってからは、不自由なために行かれなくなりました。
御著書の装幀は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は使えませんでした。
このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬めども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目ではなかったのでした。
あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靭に生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました。」
2010年10月4日
酒樽屋のお八つ 其の參拾資 白梟焼き
梟(ふくろう)は、「不苦労」、「福朗」、「福籠」、「福老」などに通じると言われ、
「蝙蝠」と同じように縁起の良い動物だと言われています。とりわけ、白い梟は森の守り神だという説も。
材料は無添加、種子島のBROWN SUGARに大島の塩が売り物ですが、味は普通。
「我が家はふくろう株式会社」
10:00~18:00 水曜日定休
神戸市灘区原田通1丁目2−19
王子動物園の向かい
2010年10月1日
酒樽屋の秋
越後、上原酒造の軒先
今日は酒の日だそうで、各地で催しがあります。
「酒」という漢字の「酉」が十二支の十番目だからという無理なこじつけのようですけれど、
全く意味がない訳ではなく、「酉」という漢字は壷の形を現す象形文字。
壷はもちろん酒壷を意味します。
この時期には新米が収穫され、十月は新酒が醸される月でもあります。
明治期に制定された酒造法では10月から翌年九月までを酒造年度と定めました。
そんな訳で十月一日を「酒造元旦」と呼ぶ風習が一部の酒造家達の間には残っているようです。
「樽屋」の動きも変わります。
十月は各地で秋祭りがあったり、結婚式が増えたりして、酒樽の注文が集中します。
年始から、味噌樽(みそたる)、樽太鼓(たるたいこ)と御注文が続いておりましたが、
先日までの記録的な猛暑が嘘だったように、急に過ごしやすい気候になったからでしょうか、
漬物樽(つけものたる)また気温が下がったので、もう一度「味噌樽」。そして、本流の酒樽(さかだる)の製造に樽屋(たるや)の仕事も移行して行きます。
お陰で一年を通じて「樽」を作り続ける事が出来る訳ですが、
数年前までは、11月〜12月に酒樽の注文が集中して、夏期は主に底や蓋(ふた)の製作に明け暮れておりました。
今日は酒の日だそうで、各地で催しがあります。
「酒」という漢字の「酉」が十二支の十番目だからという無理なこじつけのようですけれど、
全く意味がない訳ではなく、「酉」という漢字は壷の形を現す象形文字。
壷はもちろん酒壷を意味します。
この時期には新米が収穫され、十月は新酒が醸される月でもあります。
明治期に制定された酒造法では10月から翌年九月までを酒造年度と定めました。
そんな訳で十月一日を「酒造元旦」と呼ぶ風習が一部の酒造家達の間には残っているようです。
「樽屋」の動きも変わります。
十月は各地で秋祭りがあったり、結婚式が増えたりして、酒樽の注文が集中します。
年始から、味噌樽(みそたる)、樽太鼓(たるたいこ)と御注文が続いておりましたが、
先日までの記録的な猛暑が嘘だったように、急に過ごしやすい気候になったからでしょうか、
漬物樽(つけものたる)また気温が下がったので、もう一度「味噌樽」。そして、本流の酒樽(さかだる)の製造に樽屋(たるや)の仕事も移行して行きます。
お陰で一年を通じて「樽」を作り続ける事が出来る訳ですが、
数年前までは、11月〜12月に酒樽の注文が集中して、夏期は主に底や蓋(ふた)の製作に明け暮れておりました。
登録:
投稿 (Atom)