2009年9月10日

吉野杉を使った木樽の作り方 その7 輪締め

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巻いた竹の箍(タガ)を締めることを「輪締め」と呼びます。
左手の締め木を右手に持つ大きな木槌で叩いて箍(タガ)を締めていきます。
何人もの酒樽職人が槌を振り続ける独特の大音響は冬の風物詩とも言えたのですが、
実際は近所の住民の方々にも迷惑をかけますし、
酒樽職人たちも40代,50代で耳が聴こえにくくなるのが通例です。

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あらかじめ、手で締めた箍(タガ)をさらに強く締めるため、
今では、この工程のみ唯一機械を使用します。

酒樽屋の中でも樽屋竹十の職人たちは最後まで機械の導入を拒みました。
昭和40年代に小豆島の醤油樽屋から製樽機械一式を譲り受けた事があったのですが、
酒樽職人たちは、まるで汚い物を見るかのように扱い、機械は工房の片隅に長く放置されていました。
恐らく、この機械が導入されると自分たちの仕事が無くなると危惧していたのでしょう。
この製樽機械一式は後日、職人たちの冷たい眼に耐えられず別の製樽業者の工場へ譲られて行きました。

「竹十」では、ようやく昭和50年代に酒樽業界で一番最後に「樽輪締機」を新調、設置することになります。
千葉県野田市に「川鍋製作所」という日本で唯一の「樽輪締機」を作る工場がありました。
昔、野田には沢山の醤油樽屋があったからでしょう。全国の樽屋がここに発注、修理を依頼していました。「竹十」も長く、ここに世話になりました。
現在は、別の仕事をされているようです。

��7歳まで現役だった、樽屋竹十の一番職人(たくさんいる職人のリーダー格で技術も名人級です)は唯一の機械である「樽輪締機」も使いませんでした。
殆どの酒樽職人たちが喜んで「樽輪締機」を使うなか、彼は目の前に楽な機械があるにも関わらず、最後まで手締めの酒樽を作り続けました。
しかし、ある日に作った酒樽の出来具合に納得出来ず、自ら引退を宣言したその一週間後に亡くなりました。
彼の最後の酒樽は若い私の目では,どこも悪い所がないものでした。

尋常小学校に通いながら酒樽技術を習得し、90年間を樽一筋に生きた見事な人生です。
彼が伝え聞いた文政二年の創業当時の話等を殆ど耳が聴こえなかったにもかかわらず、私に話してくれたものです。


現在「竹十」が使っている写真の輪締機は近所の鉄工所と共同開発した改良型の二代目です。



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