2009年1月30日
手作り味噌のために木樽をアクヌキする
手作り味噌の季節です。
味噌樽でも漬物樽でも使う前に一昼夜、ぬるま湯を樽の7分目ほど張って、杉の「アクヌキ」を施します。
一晩おくと、写真のように水も木製樽の内側も黒くなります。
この作業を怠ると杉の香りが勝ち過ぎて、折角の手作り味噌や漬物を食べたときに樹をかじっているようになってしまいます。
また、この作業は樽本体を膨らませる利点も持っているので、作ってから時間が経ち、乾いてしまった木製樽の洩れを止める作用もあります。
皆さん、それぞれに美味しい手作り手前味噌が出来ますように。
2009年1月29日
酒樽屋 のOVER THE RAINBOW 1
今でこそ、ヴァイオリンでジャズやロックを演る人が沢山出て来ましたが、
��970年代に突然ジェファーソンエアープレインのヨーマ・コーコネンとジャック・キャサディが探して連れて来たパパ・ジョン・クリーチの登場は衝撃的でした。
若造たちの中で楽しそうにブルースを弾くパパは、クラシック畑から転身した最近のヴァイオリニスト達と全く違って土の匂いのする音を聴かせてくれました。
��3歳でのデヴューです。
凡百のカントリーフィードラーとも一線を画してしております。
その後、HOT TUNAにも参加して、下の画像のように、欠かせないメンバーの一人になりました。
1917年生まれ、1994年死去
木製樽を作った残り物 その2
2009年1月27日
木製樽を作った残り物 その1
手作りの木製樽を作るために「樽丸」を用いますが、吉野杉材の最も芯に近い部分は使い道がないので、今のような寒い時期ですと作業場の焚き火にしたり、あるいは薪ストーブで焼べたりします。
山の中では、村人が競って「竃(かまど)」用に持ち帰ります。
かつては、この芯材を使って木製樽のフタに使う天星などの木栓類を、これも一個一個手作りでこしらえたもので、吉野杉は捨てる所がないという点が自慢でしたが、杉は柾目になると、水分が滲み出し易いので、椹(さわら)材に取って代わりました。
ところが、椹(さわら)は その独特の香りが清酒に悪い影響を与える上に、やはり滲みが若干あり、短期間で その寿命を終えました。
昔は兵庫県の尼崎方面に手作りの木栓屋が沢山ありましたけれど、今は一軒もありません。
最近では、全ての木栓類に「高野槙(まき)」を使っています。
槙(まき)にも特有の香りがありますが、余り清酒に悪影響を与える事もなく、
何より、液体を漏らさないという特性が最大の理由です。
2009年1月26日
酒樽屋 手作りで特大の味噌樽をこしらえる
寒い時期、手作り味噌の季節です。
新酒の出来も終わり、たるや竹十では、酒樽作りよりも味噌樽作りの方が多くなります。
普通は「味噌樽の大」というものは容量が18ℓあって、使い勝手が大変良いのですが、
それでも小さいという方々のために特大の36ℓ入る味噌樽を注文に応じて時々手作りでこしらえます。
漬物樽を味噌樽に転用する事も可能ですが、やはり何十年も使うものですから、専用の味噌樽で仕込む方がはるかに美味しい手作り味噌が出来上がります。
味噌樽は細長くつくり、開口部を出来るだけ少なくして、空気に触れる部分を少なく作ります。
それに反して、漬物樽は口を大きくとって、新鮮な空気が出入り出来るように作ります。
全く反対の物ですが、保管場所や保管状況に留意すれば、漬物樽でも手作り味噌は可能です。
写真の左側が特大の味噌樽、右は従来の「味噌樽の大」
倍の容量ですが、随分大きく見えます。勿論ひとつひとつ手作りです。
杉樽(すぎたる)は及ばざるが如し 手作り木製樽篇
木製樽の代表、吉野杉樽つくりの基本は外側の吉野杉の榑(くれ)を円形に並べた時の内周と、同じく吉野杉を竹釘で継いだ底と蓋(ふた)の外周が一致している事です。
写真の木製樽では榑(側材)の内周が蓋(ふた)の外周を上回っているので、榑の木目が押しつぶされて原型をとどめておりません。
これは、木製樽の箍(たが)締めに機械を使うので可能な状態で、昔のように手で締めていた時代ではあり得ななかった事です。
こんな風になっても、吉野杉特有のしなやかさが樽づくりの技術を補ってくれます。
写真のように蓋より側の方が多い木製樽の状態を「ほりこみ加減』
又、逆に蓋が側全体より少ない木製樽の状態を「はり加減」と言います。
いずれにしても、手作り木製樽の製作過程で最も重要な点は、この吉野杉の材料の幅の加減です。
「いい加減」に作ると洩れの原因になったり、杉材が折れたりしてしまいます。
「杉樽は及ばざるが如し」の語源は、ここから来ているだと思い込んでおりましたが、
実際は孔子の言葉らしく、
木製樽などの物作りだけではなく、誰もがいつも心がけておらねばならい事には違いありません。
2009年1月24日
手作り木製樽は、いつも逆さまにして作る
和樽(たる)づくりの基本は「さかさまに」です。
たるや竹十の木製樽は全て、逆さまにして作ります。
箍(たが)を締めるという作業が繰り返されるので、直径が大きい蓋の方を下に置いて、
樽づくりは最初から最後まで「さかさま」の状態で進行します。
全行程が手作りです。
蓋(ふた)をこめる段階を除き、出来上がって木製樽の洩れ検査をする時、初めて表向きになるのです。
「さかさまに」といえばユイスマンスの「さかしま」[À rebours]を思い出します。
新訳ブームの日本の出版界ですが、英語圏でも新訳がいくつか出ています。
写真の新版では小説のモデルとなったロベール・ド・モンテスキュウの肖像が表紙画に選ばれています。
英訳のタイトルは"Against Nature"です。
2009年1月23日
木製吉野杉樽における事故「めまわり」
昨日の「吉野杉樽の不良品」の酒樽屋日誌で触れた「めまわり」の典型的な例です。
こうなってしまうと、使い道はなくて、燃やすしかありません。
樽丸師、樽屋の親方、樽職人の三人のチェックをすり抜けて来た不良品です。
樽丸は鋸(のこぎり)は使わず、鎌(かま)を用いて木目に沿って「割る」訳ですが、この時に木目が既に何十年前に割れている場合があり、肉眼では判断出来ない隙間を持っています。
このような榑(くれ)を使って吉野杉の木製樽を作ると箍(たが)の力で、このようにふたつに割れてしまいます。
折角の樽づくりも、これではガッカリですから、
材料の選別だけは先に挙げた樽に関わる三人が目を皿のようにして仕分けする訳です。
写真は「目回り」し易い「追い柾」という「柾目」に近い榑(くれ)の一種です。
2009年1月22日
木製樽に使う吉野杉の不良品
木製樽に使う吉野杉は木目に沿って割ります。
鋸(のこぎり)という道具は木目を無視するので、酒樽屋では殆ど使いません。
木目を無視すると「洩れ」の原因になります。
酒樽屋の親方の現場の仕事は木の目を読むことです。
職人達は親方の見落とした見落とした材料を作業中に発見すると得意がって作業台から投げ捨てます。
いくら厳選しても、箍(たが)の力が強すぎたり、肉眼では見えない欠品を見落とすと、
木製樽製作は失敗です。
漬物樽や味噌樽のように蓋(ふた)のない木製樽は箍(たが)の力を支える部分がないので、
写真のように「目回り」といって、木目が割れ易い傾向にあります。
こんな状態になった木製樽を「どさ」と呼んでおります。
『どさ』とは佐渡(さど)の倒置語で、江戸時代に賭博で捕まると佐渡へ島流しになったことから、賭場に役人が踏み込むことを『どさ』と呼びました。
一旦島流しになると中々戻ることは出来ない事に比して元に戻しにくい木製樽の事を昔の職人達は「どさ」と呼んだのではないかと思われます。
2009年1月21日
味噌樽を作った後、酒樽屋の近くにある神社の厄除祭に参拝する
樽屋の近所の船寺神社や六甲八幡神社では厄除祭
船寺神社は現在の神戸市灘区に流れる都賀川の治水が悪いので、仁和四年(888年)に京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して川の方向の東向きに社殿を建てて海上安全など種々の厄除を祈願したといいます。正平十七年(1362年)に都賀野行家が奈良の春日大社の分霊を迎えて祀り、寛文八年(1668年)の増改築時には四代将軍徳川家綱が拝殿を寄進したと言われます。
先の大戦で全焼、昭和四十一年に社殿を再建。幸い阪神大震災の時は無事でした。
最初の建立の頃は、この辺りが海岸だったので「船寺」と呼びます。
今では、実際の海岸まで約10分近くかかります。
それでも、東神戸で昔の海岸線が残っている場所は、この地域だけです。
他の場所は「市街地調整」「まちづくり」等と称して、
どんどん埋め立ててしまいました。今でも埋め続けています。
六甲八幡神社も平清盛が福原に遷都した治承四年(1180年)に同じ京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まるといいます。やはり厄除けで知られ、毎年一月十八・十九日には厄除大祭が盛大に営まれます。こちらは縁日等も出て、雨にも関わらず大盛況でした。
近所の奥樣方が集まって、大きな鍋で「おでん」を作っていました。
震災復興祈願の「豚汁」も振る舞って頂き、体が温もりました。
今日は、季節なのでしょう。「味噌樽(みそだる)」の注文が重なります。
「味噌樽(みそだる)」に関しては、注文が多くて生産が追いつきません。
未だ、何人かの方々に発送を待って貰っております。
「味噌樽(みそだる)」に励んでおります。
船寺神社は現在の神戸市灘区に流れる都賀川の治水が悪いので、仁和四年(888年)に京都の石清水八幡宮の分霊を勧請して川の方向の東向きに社殿を建てて海上安全など種々の厄除を祈願したといいます。正平十七年(1362年)に都賀野行家が奈良の春日大社の分霊を迎えて祀り、寛文八年(1668年)の増改築時には四代将軍徳川家綱が拝殿を寄進したと言われます。
先の大戦で全焼、昭和四十一年に社殿を再建。幸い阪神大震災の時は無事でした。
最初の建立の頃は、この辺りが海岸だったので「船寺」と呼びます。
今では、実際の海岸まで約10分近くかかります。
それでも、東神戸で昔の海岸線が残っている場所は、この地域だけです。
他の場所は「市街地調整」「まちづくり」等と称して、
どんどん埋め立ててしまいました。今でも埋め続けています。
六甲八幡神社も平清盛が福原に遷都した治承四年(1180年)に同じ京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まるといいます。やはり厄除けで知られ、毎年一月十八・十九日には厄除大祭が盛大に営まれます。こちらは縁日等も出て、雨にも関わらず大盛況でした。
近所の奥樣方が集まって、大きな鍋で「おでん」を作っていました。
震災復興祈願の「豚汁」も振る舞って頂き、体が温もりました。
今日は、季節なのでしょう。「味噌樽(みそだる)」の注文が重なります。
「味噌樽(みそだる)」に関しては、注文が多くて生産が追いつきません。
未だ、何人かの方々に発送を待って貰っております。
「味噌樽(みそだる)」に励んでおります。
2009年1月20日
酒樽屋のお八つ 其の拾陸
京都人の昆布好きの方から酒樽屋への到来物
京昆布本舗 ぎぼしの「吹よせ」です。
何故、昆布屋さんが煎餅や豆を作っているのか不思議なのですが、彼女の好物だそうです。
確かに最近の華美な菓子類と違って、普通っぽさが新鮮です。
海老煎餅をはじめ海苔あられ等20種の菓子が入っていて楽しい「お八つ」です。
勿論、「昆布」も少し入っていました。
600-8006
京都市下京区柳馬場通四条上ル
電話 075-211-2824
FAX 075-211-0803
定休日 毎週日曜日・祝日
営業時間 9:00~17:30
2009年1月19日
吉野杉の里帰り 木製樽を使って、おいしい樽酒をつくる
吉野杉の樽酒(たるざけ)です。
瓶詰めの樽酒(たるざけ)は各蔵元が各種作っておりますが、
本当の樽酒を作ろうとしたら樽(たる)材料である榑(くれ)と呼ばれる側板は勿論、
底と蓋(ふた)の全てに良質の「吉野杉」を使用しなければ美味しい樽酒(たるざけ)は出来ません。
写真は最近、材料の地元吉野の蔵元「北岡本店」さんが作った本物の樽酒(たるざけ)です。
「やたがらす」という銘柄で有名なメーカーです。
巷に出回っている瓶詰の樽酒(たるざけ)は作る時に
吉野杉の木製樽を使っていないので、おいしいものが少ないのが現状です。
肥後杉、秋田杉、周山杉、木曽杉など清酒に不向きな酒樽(さかだる)を使うと樽酒(たるざけ)が
美味しく出来ません。
美味しくない樽酒(たるざけ)を呑んだ方は樽酒は不味いと思い込んでしまうので、
樽嫌い、酒嫌いになってしまいます。
ひいては吉野杉の木製樽の人気も落ちてしまいます。
この「吉野の樽酒」のための樽を納めるにあたって、北岡本店のY氏と綿密な打ち合わせをして、川上村産の良質な榑(くれ)を吟味し、底や蓋も吉野杉を使い、竹釘で継ぎ、接着剤を一切使わない本来の木製樽を作りました。
努力の甲斐あって、北岡本店のしっかりした清酒とあいまった大変美味しい樽酒(たるざけ)が出来上がりました。
地元吉野町の蔵元の酒樽を本場吉野杉を使って「吉野の樽酒」を作る事に協力出来たことを誇りに思っております。
今は、特別に吉野杉の枡が、もれなく付いて来て、お買い得です。
清酒も食品ですから、いくら人体に無害と言えども木製樽に化学製品の接着剤は木製樽に使うべきではないと
「たるや竹十」は考えております。
写真・右には五升(9ℓ)の木製樽、高さ27㎝ですが、左の一升瓶が小さく見えます。
2009年1月18日
酒樽屋も「夜なべ」する
2009年1月17日
樽(たる)づくりにも、人間にも「水」は不可欠である
木製樽(たる)をつくるのに、木と竹だけがあれば良いというのではありません。
何種類もの道具が必要なのは当然ですが、忘れてはならないのが「水」なのです。
人間も「水」が無ければ生きては行けません。
料理屋さんや洗濯屋さん、酒造メーカー等、挙げはじめればキリがないほど、多くの仕事に「水」は欠かせないものです。
樽屋でも「水」が無ければ仕事になりません。
「側」を立てて「樽(たる)」の形を作る時、底や蓋を(ふた)をこめる時に木の先を湿らせます。
出来上がった木製樽の「洩れ」を検査する時には樽(たる)に水を入れ空気を送り込んで洩れている部分を見つけます。
但し、余り沢山の「水」を使う職人は「腕が悪い」と昔からいったものでした。
出来上がった「樽」が湿気を多く含み、乾燥し易く長持ちしないからです。
この頃のような寒い時期には、比較的温暖な神戸でも雪が積もる事がありますので、上の写真右側に見える桶の中の水も凍ってしまいます。
こうなると作業台が凍結しますし、前述の「樽吹き」と呼ばれる「洩れ」の検査も不可能になり、製樽作業が全く出来なくなります。
人間より、酒樽など木製樽のことだけを重視して、日陰の北向きに建てている酒樽屋の建物では尚更です。
今でこそ、暖房の設備が整っているので作業不能という事態にはなりませんが、
数十年前は、作業場の水が凍ったら酒樽屋は休業と決まっておりました。
また、朝から作業していても桶の中の水が凍った時点で樽職人は全員帰宅するという習慣がありました。
樽づくりは真冬でも汗びっしょりになる仕事ですから、職人達は決して寒いという理由でサボってしまったのではありません。
したくても仕事が出来なかったのです。
唯一、例外は1995年の阪神淡路大震災の後です。
最も貴重な水を使う訳にはいかないので、復旧作業の合間に不自由な工程で仕事を細々と続けました。
仕事場を喪った近所の樽屋の職人たちが数人「竹十」の作業場を借りに通って来ました。
奇跡的に「竹十」だけが神戸では唯一、損壊しなかったからです。
たるや竹十では江戸時代に建てられた美しい木造の蔵が四棟壊れました。
幸い、竹十の作業場は殆ど無傷だったので、宮水を使って樽づくりを続けました。けれど、生活に必要な水も確保出来ない環境でしたから、実際は開店休業でした。
木製樽は品薄のポリバケツの代りに貯水用に使うという状態でした。
震災から14年が経ちます。
酒樽屋の道具 其の拾
樽屋では余り使わない「南京鉋(かんな)」です。
元来、桶屋の道具です。
洋樽屋さんや家具屋さんでも使います。
ですから、樽屋が使う道具の中では唯一、市販されており未だ新品が手に入る物です。
底や蓋(ふた)の周囲を銑(せん)の代りに、これを使って丸く削ります。
銑(せん)よりも容易に使え、便利なので「たるや竹十」でも時々使います。
「大田」という焼印が見えますが、これは私の師匠から形見に頂いた物です。
近所に住まわれていて、よく教えを請いに通っていた大田金蔵さんが
「俺が死んだら、おまえが使え」と言って生前に譲渡を約束して下さっていた品物です。
良い道具は、こうして代々受け継がれて行くもので、大切に使わなければなりません。
残念ながら、道具は譲ってもらいましたが、大田さんから、その技術の全てを学ぶ前に亡くなられてしまいました。
本当に譲ってもらいたかったのは、その技術の方です。
2009年1月15日
酒樽屋の虫養ひ 其の拾
2009年1月14日
酒樽屋がつくる味噌樽(みそだる)も手作りです
2009年1月13日
漬物には木製樽が一番
2009年1月12日
店内に並べる木製樽(たる)
2009年1月11日
吉野杉で作った木製樽(たる)
2009年1月10日
冬野菜の季節に漬物樽(つけものだる)
結婚式に酒樽(さかだる)を鏡開き
2009年1月8日
酒樽屋のお八つ 其の貳拾伍
上の方にたくさん並んでいるのは古い木製の菓子型
看板は富本憲吉によるもの。
手前の椅子は確か黒田辰秋。
そこかしこに日本の民芸運動の香りがします。
さながら月末から始まる「アーツ&クラフト展」の会場の一部か三國荘の一室のようです。
日本の民藝運動の人達って甘党だったのかな。
久々の「お八つ」は平安殿の粟田餅です。
甘辛くて、不思議な味です。
〒605-0038
京都市東山区平安神宮道三条上ル堀池町
営業時間/午前9時~午後6時
年中無休
℡075-761-3355
2009年1月7日
酒樽屋(さかだるや)がつくる味噌樽(みそだる)
「たるや竹十」では味噌樽(みそダル)として、大と小からなる二種類の味噌樽(みそだる)をつくって来ました。
それぞれ好評だったのですが、
大の容量が18リットル、小が9リットル、これが一般的な味噌樽(みそだる)の大きさなのですが、稀に更に大きな物の注文を受けます。
写真は試作した36リットル入りの味噌樽(みそだる)高さは約55センチ。
��6リットル(二斗)の味噌樽(みそだる)というものは余り一般的ではなく、
同じ容量の二斗(36りっとる)漬物樽を代用される方が多かったのですけれど、
仕上がりは、やはり それなりです。
いかに空気に触れる面積を小さくするかという味噌づくりの基本にのっとれば、
折角の手づくり味噌ですから、本当の「味噌樽(みそだる)を使うべきでしょう。
価格未定ですが、味噌樽(みそだる)も大中小の3種をラインナップする事が出来そうです。
上蓋と落し蓋の二枚が同梱されます。
酒樽(さかだる)屋から新年の挨拶
賀 正
客年は御引立てを忝うし奉謝候
尚本年も倍旧の御愛顧奉願上候
年末年始は漬物(つけもの)や味噌(みそ)をつくる時期であることに加え、
灘五郷をはじめ、全国の蔵元からの酒樽(さかだる)の注文に追われて、
酒樽屋日誌の更新があまり出来ない状況が続きました。
「たるや竹十」は、手づくりならではの酒樽(さかだる)、漬物樽、味噌樽、樽太鼓、店舗用樽に
今年も更に力を入れていく所存です。
画像は江戸時代から昭和初期まで流通していた「引札(ひきふだ)」です。
もっぱら木版画や石版画で、本来この版画の横に商店名が入り、年末年始に得意様に配ったものです。
新年の暦などが挿入された引札暦という豪華版もありました。
現在の新聞折込チラシのようなものでしょう。
モチーフとして酒樽(さかだる)も恵比寿さんや大黒さんと共によく使われています。
ことほどさように酒樽(さかだる)が当時の日本人にとって日常的なものであった証拠でありました。
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