2013年10月28日
酒樽(サカダル)完成後に使っていた三ツ目錐(きり)
酒樽(さかだる)を作ると酒を容れる所と出す所が必要になります。
現在は下の写真の電気ドリル、少し前だと手回しドリルを使っていましたが、
この「三ツ目錐(きり)」の時代が非常に長かった様で昭和の最後まで使っていました。
この道具は樽作りだけではなく「穴」をあける際の大工道具ではなかったかのと想像します。
われわれの業界では樽屋よりも小売りの酒屋さん、造り酒屋の必需品でした。
大小2種あります。直径六分(約18ミリ)と八分(約24ミリ)、その他に天星の穴用もありました。
いまでは、こんな電気道具が主流です。こちらの方が綺麗に切れるので仕方がありません。
三ツ目錐は頻繁に研がねばならず、うまく使いこなすには熟練を要しました。
樽(たる)を作る工程で最後に使う道具です。
2013年10月25日
酒樽屋のお八つ 其の參拾伍 六珈
2013年10月23日
吉野の材木市で樽材を買ふ
本来、吉野杉は酒樽(さかだる)のために植林されてきたものなのですが、木樽(たる)の需要が減って来ると同時に、その無節の麗しさ、色目の美しさから建築材として脚光を浴びるようになり、樽材用の原木はその残り物の感すらありました。
良き時代が続いた後、輸入材や合板が大量に使用されて高価で加工が難しい無垢の杉が売れなっていきます。同時に和樽(たる)に適した杉材も市場に出て来ない事態が発生します。
写真に見える原木の小口にチョークで書かれてている数字は、その容積と価格です。
ここ数年、山には杉は沢山生えていても搬出の手間賃が出ないと言う理由から市場に杉が出て来ない状態が続いていて、樽材の入手が非常に困難になってまいりました。
2013年10月22日
酒樽屋(さかだるや)への訪問者
「聞き書き甲子園」といという特殊な取材があって、岡山県立矢掛高等学校から女子高生が来訪。
阪神間の住民にとって「甲子園」と聞かされても近所の町である西宮市の一地名か、
某プロ野球球団の本拠地くらいを想起するしかないので、高等学校を思う事はちょっと困難です。
全く「和樽(たる)」についての知識を持っていない方に樽(たる)について約3時間ばかり
実演を含めて説明しました。
先ず、吉野杉の白太と赤味の違いを理解してもらうために丸太を用意しました。
ゼロからの説明は自身の頭の整理にもなるので、有意義なのですが少し疲れます。
2013年10月20日
伊豆大島の酒樽(さかだる)
台風26号の影響で大変な被害を受けている伊豆大島ですが、未だ埋まったままの人もたくさんいるというのに季節はずれの台風27号がやって来て救援活動も一時中止なのが大変無念です。
伊豆大島では酒樽を使って海水による塩業が盛んで、運んでいる樽(たる)は塩用だったかも知れません。たるや竹十が贔屓にしている天然塩製造の熊本や天草の塩業の方々も元は伊豆大島を手本にしたと言います。
龍ノ口遺跡を紹介したのが坪井正五郎であることは余り知られていないようです。
右側の女性が頭に載せている物は何か不明です。当時から女性の労働力に負うところが大きかった画像です。東南アジアの各国では今でも男より女性がよく働くのが特徴です。
さるにても日本に限らず最近は異常気象が非常に多く、地球も段々おかしくなって来ました。
写真は衣装や風俗から見ても戦前のものと思われます。
左の女性が担いでいるのは四斗(72リットル)樽ですけれど、軽々と持っているところから空樽(からだる)でしょう。四斗樽の中へ実際に酒を容れますと80キロ位になるので相当な力持ちでも持ち上げられません。昔はフォークリフト等がなかったので、とんでもない力持ちの人が酒樽の運搬に従事しておりました。樽運びに専従している職業もあって、その専門的な職業名は失念しましたが、鬼留だとか力石とか相応しい姓でした。神戸では後に大きな運送会社に発展した事業所も何カ所かあります。
2013年10月18日
酒樽屋の虫養ひ その拾陸 蕎麦
2013年10月11日
𥶡(タガ)転がし用の竹タガを探して酒樽屋(さかだるや)へ来客
「樽(たる)転がし」や「箍(タガ)転がし」という懐かしい遊びがあります。
昔は現代の様に高価な玩具やゲーム機などがありませんでしたから、
身近にある「樽(たる)」を遊び道具に使っていたものです。
ことほどさように、最近まで「樽(たる)」や「箍(たが)」が生活の一部だった訳です。
今では𥶡(たが)を探して京都から電車で来店される時代になってしまいました。
京都の桶屋さんは高級になり過ぎて竹タガを用いず、銅(あか)タガを巻く方が主流のようです。
2013年10月10日
出張酒樽屋(さかだるや)またの名を輪替屋(わがえや)
古い話ばかりで恐縮ですが、昭和40年代前半頃まで各町角村に「輪替屋」がやって来た物です。各家には必ず盥(たらい)、半切り(はんぎり)、お櫃(ひつ)、風呂桶、漬物樽(つけものたる)、味噌樽(みそたる)等々の木製品があふれていて、その修理に追われていたものです。
同時期には「鋳掛屋(いかけや)」という鍋や釜など金属製品の修理を生業とする業者をどの町でも見かけたものです。
石油製品が席巻し、使い捨てが美徳と勘違いされる時代が来るまで町には職人が大勢いました。
写真は明治後期とおもわれる「輪替屋(わがえや)」とその丁稚(でっち)です。
キャプションには「A Cooper」とあり、これも当時流行していた着色絵葉書屋の勘違いでしょう。
牧場主の息子と言われているゲーリー・クーパーの英国での祖先は樽屋(たるや)だったのかも知れません。
画像は共に記載はありませんが、F.ベアトの弟子日下部金兵衞の撮影によるものと思われます。
町の風俗を歩きながら撮影したのではなく、道具や背景を用意して写真館で撮ったとおもわれます。また、絵葉書に於いて撮影者を特定する事は金兵衞以外には今でも稀でしょう。
金兵衞が横浜で写真館を営んでいたのは有名ですが、最晩年92歳で死去するまで芦屋の上宮川町の知人宅に寄寓していた事は余り知られておりません。
画像は神戸市立博物館所蔵のカタログより(輪替屋の絵葉書は金兵衞作と特定されておらず)
2013年10月8日
酒樽屋(さかだるや)の寒露
暦の上でも、例年でも、すっかり秋の筈なのに、まだまだ暑い日が続きます。
酒樽屋(さかだるや)では吉野杉による蓋(ふた)の乾燥作業です。
いったい何時になったら「秋」が来るんでしょうね。
樽材の乾燥は、かつて神戸の浜で行っていたのですが、
広い場所が必要なのに神戸に「浜」が殆ど無くなったので
昭和40年位から現地吉野で作業するようになりました。
最近では「おおばい」とい重ね方をせず、井の字型に積み上げます。
奥から二番目が底用、手前の黒い板は樽酒用の木香樽の底に使います。
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