2010年9月24日

新潟総踊りに樽太鼓(たるだいこ)大活躍

今年も賑やかな新潟総踊りが無事終了しました。

公演ギリギリまで傷んだ樽太鼓(たるたいこ)の修理も随分こなしました。
今年は万代太鼓や、長岡や小千谷の連、蒲原郡の弥彦の学校などへも沢山の樽太鼓(たるたいこ)を送ったので、樽屋竹十の樽太鼓(たるたいこ)が新潟で随分活躍しました。



永島鼓山先生の樽砧打ちは別格です。
いつか神戸でも公演してもらおうと画策しています。



今年の映像は未だ編集中らしいので、昨年の動画で我慢して下さい。
年々、迫力が増して来ました。
樽屋竹十の樽太鼓は、たいそう良い音が出ると評判がよく、神戸は勿論、
全国各地から沢山の樽太鼓(たるたいこ)の御注文を受けて、
在庫もすっかり無くなってしまいました。
明日は、奈良県吉野郡へ樽(たる)の材料の調達に行ってまいります。

2010年9月23日

酒樽の鏡と十五夜

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今夜は旧暦で八月五日、望月、芋名月、あるいは単に名月とも。


縁側に文机を出し,月見団子や里芋、また穫れたての野菜などを供えます。
残念ながら、今年は秋雨前線の影響で満月は見えず。
十五年前の阪神淡路大震災の夕べは真っ赤な満月でした。

満月を見ると、いつも Tom Waitsトム・ウエイツの Grapefruit Moonと、
ソウルフラワー ユニオンの「満月の夕」そして酒樽の蓋(ふた)を想起します。
蓋(ふた)のことを「鏡(かがみ)」とは呼びますが、「満月」云々とは謂いません。
隅に付いている木栓は「天星」と呼ぶのですけれど..............





月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月 よみ人知らず

2010年9月9日

酒樽屋の輪替

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先日の落語の「たが屋」と作業は似ておりますが、少々違います。
「たが屋」のお客さんは、もっぱら市井の奥様方でしたけれど、
これは造り酒屋の蔵の中に入って酒造道具のメンテナンスをする際の価格協定表です。
酒樽屋の組合(この場合は、その中の桶部門)と酒造組合が定期的に集まって、
少しずつ値上げされておりました。

これは大正10年のものですが、毎年のように改訂され続けて、最近ではこのような明細は作りませんが、今でも木桶や木の道具を使った昔の酒造りを継承している蔵がいくつか残っているので、道具の手入れや新調は、蔵開きの前の夏の仕事になります。




2010年9月8日

簡易式樽太鼓(たいこ)修理法

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最近、急速に需要が伸びて来た楽器としての樽太鼓(たるたいこ、たるだいこ)は
廉価で、かつ趣きがあり人気があります。
昔は学校や保育園での色々な催しや音楽の授業に使うという形態が主でしたけれど、
最近は地元の祭、阿波踊り、八木節、ソーラン節などの囃子方にも登場、
更に江戸明治期に盛んだった、使い古した酒樽や醤油樽を楽器に見立てて祭の宵に叩きながら踊る風習を復活させようという兆しが全国各地に広まって来た事も影響しています。

樽太鼓(たるたいこ)は杉製ですから、フタが柔らかいので叩き続けると表面の摩滅、ささくれが顕著になります。かつて、これを改良しようとフタを分厚くしてみたり、あるいは南洋材のように硬い物を使ってみた事がありますが、やはり杉の持つしなやかさと現在の約2センチの薄さが高音を醸し出しているようで、基本的な樽(たる)の形状は変えず、箍(タガ)の堅さの方が重要だという事を再認識しました。 

小学校でも高学年になると大人顔負けの力で叩くので、フタの傷みも激しくなります。
それより、保管状況にもよりますが、竹の輪で出来た箍(たが)よりも、
杉で出来た蓋(ふた)の乾燥が早いので、一年程で音質が劣化する事です。

樽屋竹十では、こんな場合、蓋(ふた)も箍(たが)も総替えして新品同様に再生します。
そこまで完璧を求めない方や予算と時間に制限がある方の場合は、蓋(ふた)を裏返して、
上2本の箍(たが)を締め直します。
元が中古の酒樽であった場合は蓋(ふた)に天星(てんぼし)を入れ直します。

外見は余り良いとは申せませんが、音が第一ですから楽器としての第一条件は満たしている訳です。

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写真の場合は穴が貫通してしまいました。
蓋(ふた)が、ここまで傷むと当然「裏返し」は不可能です。新品と取替ました。
弊店の樽太鼓は、音が良いと気に入って貰えるのは、
機械による量産品と違い、ひとつずつの手作りだからではないかと思います。

2010年9月4日

酒樽屋のお八つ  其の參拾參 水羊羹

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本日のお八つは、超高級菓子舗「喜多」の「水羊羹」です。
写真家の喜多章氏の御機嫌が良い時にだけ限定数個だけ作る非売品なのです。
水出し煎茶との取り合わせで頂きました。

因みに手前の煤竹によるの楊枝も同氏の作

2010年9月3日

たがや 落語に登場する「箍(たが)」

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両國花火之圖(六枚續の上部三枚) 歌川豊圖 文化年間 江戸東京博物館所蔵

樽(たる)や桶(おけ)の周囲を結っている竹の輪を箍(たが)と呼びます。
洋樽では竹ではなく金属を使い、アジアの各地では葛(かずら)の場合も見られます。
日本でも桶(おけ)の場合は銅製針金を捩ったものや、
金属板で本体を支えることもあり、これも箍(たが)と呼びますが、
たが屋と言えば竹冠のとおり、竹箍(たが)が通例です。

痛んだ桶や樽の修理を請け負う仕事が、日本中どこにでもありました。
関西では「輪替屋」、関東では「たがや」と呼んでいたようです。
お櫃(ひつ)や盥(たらい)等ちょっとした、木製品を気軽に修理してくれる仕事です。

たがやという掛け声の「落げ」の落語が有名です。
「たまや!_」と掛けてているのでしょう。
三代目金馬、五代目志ん生、三代目志ん朝などが有名ですね。

故志ん朝師匠の「たがや」其の一其の二其の三を拝聴してみましょうか。(注 計20分ばかりありますよ)

師匠、最近じゃ「たがや」の何樽(なんたる)かを「枕」で説明するのに往生しそうですな。

「桶屋」はかろうじて復活しつつあり、「樽屋」も清酒が無くならない限り続きますけれど、
残念ながら「たがや」や「輪替屋」は「鋳掛屋」同様、皆無になってしまいました。
結局、「たるや竹十」に全国から輪替えの依頼が来るという奇妙な事態になっております。
日本中に「輪替え」を待っている桶や樽が無数にあるというのに。

折角、皆さんが桶や樽の良さに気が付きはじめて下さったという時には、
既に職人がいなくなっていました。
万博前後に台頭したプラスチックの功罪は想像以上に大きいようです。

2010年9月2日

樽屋が行う最後の作業、「さし留め」

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完璧に出来上がった積もりの酒樽でも、酒を入れると思いもしない箇所から洩れ出す事があります。
この状態を「さし」と呼びます。
酒が「さす」すなわち、洩れるからです。「差す」とか「注す」と書きます。

こうなると蔵元の「樽場」から呼び出しがかかります。たいてい早朝です。
道具一式を携えて、酒蔵へ向います。

手前にある四つが先日、紹介した「虫食い」
左が「虫食い」を入れるために穴を開tけなければならないので錐
右は、その「虫食い」を叩き込むための「目打ち」
向こう側は、叩き込んで余分が残った「虫食い」を切り取る鑿(のみ)など。

変形の金具は和紙を使う時に必要な丸みの付いた金具。
その隣は「まさ」と呼ぶ、本来は杉の端材を使うものなのですが、
最近は強度を高めるためでしょう。「竹まさ」と言って、竹の切れ端を主に用います。

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一度は止まったと判断して帰る途中に電話があり、また別の場所から洩れ出した由。
大概の「さし」は「虫食い」と「和紙」で留るのですが、最近の暑さに酒樽も乾燥していまったようです。
和紙を洩れている隙間に差し込んで行くと少々の洩れや滲みを留める事が出来ます。

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「まさ」を箍(たが)と側板の間に差し込んで、箍(たが)の力を強くします。
余り強過ぎても「まさ」の隣の力が弱まるのため、この作業は微妙な力のバランスを必要とします。
本当の仕上がりは「まさ」が見えないように箍(たが)の奥に隠してしまうのですが、
説明し易いように表面で切断しました。





2010年9月1日

真夏に大量の四斗樽

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八月も今日で終わりだというのに、突然四斗樽(たる)の注文が沢山あり、
樽屋の全盛期でも真夏に大量の四斗樽(たる)を作ったという記録はありません。
夏には竹はないし、今年のような尋常ではない暑さの時期に大樽作りは汗びっしょりです。
写真の手前に見えるのが一斗樽(たる)=(18リットル)ですから、
四斗樽(たる)=(72リットル)の大きさがよく判るでしょう。

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これだけの量の四斗樽(たる)の梱包や、運送の手間も大変だなあと思っていたら、
トラックで引き取りに来てくれました。
最初は午後6時頃という約束だったのが、当日に突然午後3時に変更になったのですが、
それでは最後の一丁が出来上がっておりません。
無理を言って4時過ぎに変更。

江戸明治期における酒樽(たる)と言えば甲付の四斗樽(たる)だけと決まっておりましたが、
後年その利便性から、半分の量が入る二斗樽(たる)を「はんだる」と呼んで作り、
更に半分の一斗樽(たる)を「こだる」称して、四斗樽(たる)以上に流通せしめました。

ところが、ここ数年の日本の清酒離れと連動して、最大生産量を誇っていた一斗樽(たる)=
��8リットル入がすっかり衰退し、むしろ本来の酒樽である四斗樽(たる)が復活してきております。
一斗樽(たる)は醤油にも酢にも使っていたので、その生産量は半端な数ではなく、
全体の7割近くを占めていた程で、とても手作りでは間に合わず、醤油メーカーが率先して、
特殊な技術がなくても、一日に200丁以上も量産出来る機械が第二次大戦前に開発された程です。
「樽屋竹十」にも、昭和40年代半ばに、この種の機械一式が小豆島から運ばれて来ましたが、頑固な樽職人ばかりが居並ぶ「竹十」のことです。
一番職人が率先して「こんな無粋な機械を導入するのなら、お暇を頂きたい、長い間お世話になりました。」という通告を受け、機械より職人の技の方が大切ですから、機械導入は断念。
この機械一式は別の場所へ移動し、そこで一斗樽(たる)を増産して完成品を「竹十」へ運ぶという方法をとりました。
職人達にとっては自らの技に対する矜持もさることながら、自分たちの職を奪われそうな恐怖を感じたと、引退したある職人が回顧しておりました。
それほど巨大で無機質な物体が威圧感を漂わせて、工場の入り口に長く鎮座しておりました。