2009年5月22日

酒樽(タル)屋が、昔つくった醤油樽(タル)

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多分、昭和30年代の物かと思われます。
清々しい青竹も、およそ30年以上経ちますと樽(タル)の箍(タガ)も飴色になってまいります
この飴色がいいと良いと仰る方もおられます。

昭和40年前後だったと思います。
醤油業界が木樽詰を全国一斉に廃止し、全てを一升瓶に移行したものですから、
それまで使っていた赤味側の行き場がなくなりました。
かつて、清酒樽は甲付樽、醤油樽は赤味樽とはっきりと分けて作っていたものです。
冬は清酒樽、夏は醤油樽を作るという風に、なにもかも樽の業界はバランスが取れていました。
この写真の古い醤油樽が何故、今「たるや竹十」に戻って来ているのか謎ですが、
醤油樽は酒樽と違って呑み口がダメになると、別の場所に又「呑み穴」を開けて、
長く使ったものです。それでもダメな樽が修理の為に戻って来たままかと思っていましたが、
鏡の木栓の径が違うので別の樽屋さんの物かも知れません。


嫌がる清酒メーカーに懇願して、当時の特級酒(現在の特選など)を甲付樽に、
一級酒(現在の上選など)と二級酒(現在の佳選など)を赤味樽に詰めるように
変更してもらいました。
当時、頑として要請を受け入れてくれなかった蔵元が今でも甲付樽だけを使っております。

大きなウエイトをしめていた醤油樽が無くなるということは大変な事件でした。
「たるや竹十」でも、工場の南に広がっていた浜から「天神丸」という大型船に醤油樽を満載して小豆島へ定期的に運んでおりました。
「天神丸」の船長さんは優しい人で、お小遣いの他に小豆島特産の珍しい食べ物を樽職人達に配っていました。
子供だった僕たちにも御菓子を配ってくれるのが楽しみでした。
毎月、僕が電話の取り次ぎをしていましたが、船長さんの名前は失念してしまい天神丸という船名だけ鮮やかに覚えています。

樽だけではありません。樽職人も仕事を失い、小豆島だけではなく、
岡山の玉島や関東の野田から多くの職人が「たるや竹十」にやって来ました。
彼等は殆ど一斗樽しか作る事が出来ませんでしたので、
「二番職人」と呼ばれて一段下に見られ、待遇も違っていたので、かわいそうでした。

職人だけではありません。小豆島や千葉県の野田にあった樽工場の廃業に伴い、
そこの機械や道具も、まるごと「たるや竹十」や他の樽屋さんが引き取りました。
岡山の玉島出身や広島出身の職人さんも「たるや竹十」の二階に住み込んでいたのを覚えています。
各地の樽職人が集まりますから、それぞれ作り方も違い、もめ事の原因にもなりましたが、
実は互いの技術交換になって、結局全体の技術向上になっていたのだと思われます。


「樽は手作りでないと樽ではない」と機械導入を全員で反対する職人達の意気に反するので、
機械類は近所の別の業者に全部運び、そこで機械樽を作ることにしました。

��0歳を過ぎても職人としての矜持から、決して輪締機を使わず、
手締めしていた職人さんは一番見事な仕事をしておりましたが、96歳の春でした。
「もう自分で納得いく樽を作る事は出来ません」と言って道具を弟子に譲り、一週間後に亡くなりました。
「たるや竹十」の樽は作った職人の責任の所在が判るように記号を底にイロハで印を押しておりました。
「へ」の印の樽を作り続けたTさんは尋常小学校に通いながら樽屋に見習いで入り、
苦労して腕を磨き、最期まで見事な職人人生を遂げたと思います。

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