2009年6月11日

酒樽やのお八つ其の弐拾伍 その後のバウムクーヘン

東京も東北南部も梅雨入りしました。
昨日の神戸の雨がきっと東京に移動していることでしょう。
雨期は嫌なものですが、日本一雨の多い奈良県吉野郡川上村では樽(タル)の材料となる、
杉が最も良く育つ時期でもあります。雨と太陽の光が他の植物同様、吉野杉には不可欠です。
写真はモンテールのバウムクーヘンです。
通販で大人気だそうですが、バウムクーヘンといえば、やっぱりユーハイムでしょう。
日本ではじめて、バウムクーヘンを作った店ですから。

monteur_y-010.jpegphoto/モンテールのサイトより
これはこれで厚さ10センチが売り物だそうです。

DSC08648.JPG
こちらは、そっくりですけれど「吉野杉」のかたまりです。
樽(タル)の材料を取った残りの芯の部分です。
樹木を車の中や家の中に置いておくだけで自然の芳香剤となり、嫌な匂いも吸い取ってくれます。
あらかじめ、切り込みを入れて割れを防いでおります。
居ながらにして、「森林浴」が出来る訳です。


1921年(大正10年)、カールとエリーゼ・ユーハイム夫妻が、横浜・山下町にドイツ菓子の店「E・ユーハイム」を開店しました。
カールは1886年、南ドイツのカウプ・アム・ライン生まれ。
厳しい修行の後、一人前の菓子職人になった20歳の時、菓子協会の勧められ中国・青島(チンタオ)の菓子店に勤めました。
当時の青島はドイツの租借地、カールの作るバウムクーヘンは「本場ドイツの味」と評判を呼び、権威あるマイスターの資格も取得しました。
あっという間の5年間が過ぎ、久しぶりにドイツに帰ったカールはひとりの女性を紹介されます。
その女性こそエリーゼでした。1892年ザンクト・アンドレーアスベルク・ハールツ生まれ。
簿記や菓子店経営に必要な学科を習得している聡明な女性でした。
ふたりは1914年7月青島で結婚式をあげます。
しかし、折悪しく第一次世界大戦が勃発し、青島は日本軍に占領されてしまい、カールは日本に強制連行されてしまったのです。
広島の収容所に入ったカールでしたが、たまたま開かれたドイツ作品展示即売会で自慢のバウムクーヘンを出品、これが日本で初めて焼かれたバウムクーヘンでした
1920年捕虜生活から開放されたカールは、その後も日本に残り、ちょうど「明治屋」が銀座に開店しようとしていた洋風喫茶「カフェ・ユーロップ」の製菓主任として迎えられることになりました。
青島に残されていたエリーゼは息子のフランツを連れて日本に渡り、カールと再開。その後、明治屋との契約が終わった1921年、全財産をはたいて手に入れたのが横浜の店だったのです。

「E・ユーハイム」では、バウムクーヘンをはじめ、サンドケーキ、プラムケーキ、アップルパイなどが飛ぶように売れ、順調な滑り出しをみせました。カールは日本人の職人を「ベカさん」と呼び、ドイツ式の材料を正確に計る科学的なやり方を教えていきました。
しかしマイスターの誇りであるバウムクーヘンだけは他の職人にまかせることはありませんでした。
ふたりの間に女の子も生まれ、すべてが順調だった矢先の1923年、なんと関東大震災が起こり、店は一瞬にして灰燼と化してしまったのです。
命からがら船で逃げ出した夫妻がたどり着いたのが神戸でした。
このときふたりの全財産はカールのポケットに入っていた五円札が1枚だけだったといいます。

しかし、夫妻はあきらめまず、多額の借金をして神戸・三宮に新しい店を開店。
その名も「Juchheim's」
英国人ミッチェル氏の設計による神戸で初めての洋館菓子店でした。
港町神戸には当時から多くの外国人が住んでおり、ユーハイムは本場のドイツ菓子を売る店として注目され、初日の売上はなんと135円40銭。
2日目には材料が底をつくまで売りつくしてしまったといいます。
失意のどん底から、また夫妻は新たな夢に向かって歩み出します。
順調に業績を伸ばし、近代的で清潔な新工場を建設するに至りました。
その工場が完成して間もない1930年10月には、昭和天皇即位を記念して神戸で行われた大観艦式の献上菓子に選ばれるなど、順風満帆の日々が続きました。

その後新しい店などに押されて売上を落とすこともありましたが、そんな時エリーゼはカールや職人に向かって力強く言いました。
「私たちは最高の材料と最高の技術でお菓子を作っています。心配ありません。」と。

やがて第二次世界大戦が勃発。職人たちも次々戦場へ赴きました。
神戸も空襲を受け、夫妻も六甲へ疎開しましたが、カールは病に倒れ、日々衰えていきました。
1945年夏、広島・長崎に原爆が投下され、終戦を迎える前夜、ついにカールは息を引き取りました。その上、エリーゼも終戦後ドイツに強制送還されてしまったのです。
しかしユーハイムの灯は消えませんでした。
戦争から戻った職人たちが1950年神戸・生田神社前に店を開き「ユーハイム」を再開したのでした。そして1953年には、6年ぶりにエリーゼを日本に迎えることができたのです。再びユーハイムは、カールとエリーゼの理念に導かれながら「美味しいお菓子」を作ることで、新たな時代に向かって歩み始めたのです。
その後日本経済の成長に伴い、より多くのお客様にお菓子をお届けできるようになりました。エリーゼは、商売繁盛の秘訣は「誠実と正直」と言い続け、純正自然の材料のみ使い、不必要な添加物は使わないという基本理念は変わることはありませんでした。
やがて1971年、エリーゼ・ユーハイムは80年の生涯を閉じましたが、1976年にはドイツに出店。
エリーゼの悲願を果たすことができたのです。「 ユーハイム物語」より抜粋

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