2010年11月29日

酒樽屋がつくる一番大きな味噌樽(みそだる)

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今年も味噌作りの季節になりました。
去年と少し違う傾向は皆さんの作られる味噌の分量が多くなって来た事です。
これまでHP上で販売して来た「大」と「小」では間に合わず、
その倍や更に四倍の大きさの味噌樽が必要になります。
��0キロや30キロ或いは40キロの味噌つくりに対応出来ます。
これ以上大きい物は四斗の漬物樽に被せ蓋(ふた)を添付する方法を取ります。

蓋(ふた)を二枚、落し蓋(ふた)と上の被せ蓋(ふた)の二枚を必ず付けるのですが、
これも完全に接着剤を使用しない物に変更しました。

写真の味噌樽(たる)は高さが一尺八寸(約56センチ)もあります。
更に蓋(ふた)の厚みも七分(約2センチ)の厚みの丈夫な物になりました。
蓋(ふた)や底に使う材料ももちろん吉野杉です。

ちなみに左で植木鉢に使用している樽(たる)が四斗樽(たる)すなわち56型、
右側に見える小さい漬物樽(たる)が五升樽(たる)すなわち27型です。

2010年11月24日

酒樽屋が酒樽をつくる

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弊店の樽は全て吉野杉で作ります。
殊に重要な側面の「榑(くれ)」と呼ばれる箇所は、奈良県吉野郡川上村の原木のみ、
ごく稀に近隣の黒滝村、東吉野村の杉を用いる事もあります。
この三ヶ所の杉のみ、江戸期から樽材として植林されて来た杉です。
樽の需要が減ると共に建築材への転用が増えて立場が逆転しましたが、
近年、建築材も外材に押されて内地材の使用が減り、樽材の立場戻って来ました。
残念ながら、酒樽は固定価格なので樽材も余り高価な原木は使用出来なく、
更に良い原木自体が入手困難になって来ております。
吉野地方の木材市場に良質の杉が出品されなくなり、
樽丸業者がたいそう困惑している状況です。
幸い、弊店は自身の山林から酒樽に相応しい吉野杉を直接伐採し、皮を剥いて、
山中にて乾燥させ、ヘリコプターを利用して麓まで降ろします。
命をかけた仕事です。
杉に限らず、材木は麓からではなく、奥地から順に伐採しなければならないので、
切り出し作業が困難です。
ロープを張って他人の山の上を通過して降ろすと通過料を請求されます。
急いでいるときはヘリの方が費用はかかりますが、手続きが容易です。
最近は切り出し専用の林道を造る方式が採用されています。

建築材として植林していたので直径が約1メートル位の百年ものを贅沢に使います。
木目も密集していて色も良く,良い手入れが施されていて高価ですが、
作業はむしろ楽になります。
酒樽には本来60年〜70年ものが最適と言われていましたが、
適度な材を入手出来ないので仕方がありません。
��0年以上前の原木は径が大きい事と白太が経年により変色しているので良質の甲付材を多く取る事が出来ないという問題も含んでおります。
ちなみに百年以上の杉は老化が始まっているため、酒樽には適しておりません。
 
その後、四斗樽用、二斗樽用、一斗樽用、
及び二斗ハンダルセット用の四種(四斗ハンダルセットは一斗樽)の長さに切断し、
それをミカン割リにします。
その後、一番外側の白太は柾目に割り、桶に。或いは箸に使います。
外が白太で中が赤味の「甲付材」を最初に割り、続いて直ぐ中の赤味を割ります。
甲付材は一本の原木から一ヶ所、赤味材を二三枚取ります。
専用の刃物「銑(せん)」を用いて、仕上げ充分な風と日光にあてて乾燥させます。
 
蓋(ふた)と底は廉価に作る必要がありますので、吉野材の中でも一段階低い
原木を、今度は割らずに製材所で電動鋸によって挽きます。
これも充分な乾燥を経て、選別し例えば四斗樽の蓋ですと径が大きいので、数枚の板を竹釘を用いて継いで行きます。
これに鉋をかけて帯鋸で回し、丸く加工します。
人体に悪影響を与える接着剤等は一切使用しません。
アトピーやハウスシックの方に大変迷惑をかけるため、たとえ手間が何倍もかかれども化学物質は一切使用しないことにしました。
杉は柔らかい木ですから竹箍(たが)で樽を締める際に木目が圧縮されますので、
完成した樽を丸く仕上げるためには、底と蓋(ふた)は微妙な寸法ですが、楕円に加工しなければなりません。
底と蓋(フタ)の材料は樽丸をミカン割した際に木目が歪んでいたりする物も出て来ますので、これを利用する事も最近では増えました。
側も底蓋も原木の質。その年の気候、乾燥させる場所によって様々です。
完全に乾燥してしまうと酒樽特有の木香が抜けてしまい。乾燥不十分ですと、樽に狂いが生じますし、場合によってはカビ等が発生する原因になります。
カビと思われているうちの殆どが、杉の「アク」であり、カビは殆ど発生しないよう留意しております。
 
吉野杉は秀吉の時代に樽の材料のために日本で始めて本格的な人口植林をはじめたものです。この中心になったのが吉野郡の奥地である川上村です。
��000本の苗木を手入れして百年がかりで一本の銘木に育て上げます。
建築材にその地位を奪われましたが、最近また価値を見直されて来ました。
底と蓋(ふた)の一部は価格と材料不足のため、吉野郡の麓の材も使用します。
 
酒樽の場合、カビが最も発生し易い箇所は竹箍(たが)です。
内部に影響がないので、ビニール等で密封しなければ発生を防ぐ事が出来ます。
石油系化学物質は一切使用しないで江戸明治の手法に戻す事に致しました。
 





2010年11月1日

漬物樽(たる)の秋は何処へ行った?

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今日から,いよいよ十一月です。
酒樽屋は俄然忙しくなります。
先日までの猛暑が嘘だったように、過ごしやすい秋を飛ばして突然の冬です。
そう言えば、どうやら日本は猛暑と厳冬、豪雨の三季になって、春と秋は数日だけという、
変形熱帯に移っているようです。

今年も、つけもの樽(たる)の季節になりましたが、これだけ野菜が高騰し品薄ですと、
生野菜が高級食材になってしまい、サラダも贅沢品になってしまいました。
漬物どころではなくなって来ても仕方がありません。
それでも、接着剤を使っていない吉野杉の木製樽で漬物を作ろうと思われる方々、
漬物大好きの方々には、野菜の価格は関係ないようです。
全国各地から、毎日のように注文を頂きます。
樽屋竹十も漬物樽(たる)の価格改定は少し先に見送りました。

2010年10月23日

連日の穴あき木製樽(たる)作り

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特殊な木製樽(たる)の依頼が連日続きます。
今日は和菓子屋さんが材料を蒸す時に使う木製樽(たる)で、
やはり側面に直径48㎜の穴をあけて欲しいという依頼。
普通、木製樽(たる)に穴を開ける場合は出来上がってからで、
しかも、六分か八分の二種に決まっています。
今回は穴が大きいので、樽(たる)を作る前に堅そうな材料を選んで、
あらかじめ穴を開けておいてから、組み立てました。

和菓子の製造工程に於いて必ず木製樽(たる)でないといけないそうです。
今まで何十年使って来た木製樽(たる)に寿命が来て使用不能になったそうです。

この樽(たる)も、和菓子製造のどの工程で使われ、
使用方法について簡単な説明を受けましたが、
樽屋(たるや)はあくまで単なる作り手でしかありません。
実際の使い方の具体的な詳細は不明ですけれど、
他の容器ではなく、木製容器の木樽(たる)でなければならない事には違いはありません。


ただ、日本の伝統文化継承の一環の手助けになっている事には違いありません。
プラスチックや陶器、ガラスでは適さず、木製容器でなければならない業種は、
他にもたくさんあります。

2010年10月21日

酒樽屋の恩人 生田耕作氏の命日「鴨東忌」

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生田耕作氏五十三歳の誕生日に、
御自宅から西へ歩き,川の畔にて撮影。背景は六甲山。

この頃、若き頃の樽屋の親方は同氏宅の近くに住んでいたので、
御影の御自宅や、御影市場の魚を覗きながら市場を通り抜けてサバト館編集室におしかけたり、のちに夫人となられる広政かをる氏や木水弥三郎氏と小料理屋「からさき」(現存せず)にご一緒したものでした。
近所の散策のお伴をしたり、フランス文学だけではなく、英米文学、
更に日本の近代文学から江戸漢詩に到るまで、お二人の仲睦ましい神戸時代に、
邪魔を承知でおしかけて、勝手弟子していた頃に学んだ事ごとが、
今では酒樽屋の親方の骨幹になっていて、忘れられない思い出になっております。
余った酒樽(さかだる)に蔵元から貰った酒を詰めて、何度かサバト館まで届けたりもいたしました。

この頃、神戸サバト館から多くの名著が上梓されました。
「初稿 眼球譚」(山本六三挿絵)「日夏訳サロメ」.........................................

2010年10月20日

露天風呂に木製樽を使う

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今月は本当に変わった木製樽の依頼が続きます。

樽屋竹十が作る木製樽(タル)は全てが手作りのオーダーメイドですから、
殆どの依頼に応じる事が出来る訳です。

写真の木製樽は、ちょっと見ると漬物樽(タル)のようですが、
実は樽(タル)の横に大きな穴を開けて、湯を出し入れするそうです。
銭湯で使う事だけは知らされているのですが、詳細は不明です。

最初,二斗樽(タル)を注文して下さったのが、実際に現場に届くと大き過ぎるという事で、
急遽、一斗樽(タル)に変更。発送し直しました。
H.P.に実際のサイズを表記していても、現物を目にすると多き過ぎたり、小さ過ぎたりと、
交換せざるを得ないことが一年に一回はあります。
木製樽(タル)は日常的に目にするものではないので、仕方がありません。

酒樽屋と運送屋 木製樽(タル)を託す

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余りに木製樽の出荷が多いので、宅配便のドライバーに頼み荷物を託します。
少し前までは自分で運んでおりましたが、御注文が全国各地からに広がり、
時々、海外からも依頼を頂くとなると、自分では当然運ぶ事が出来ません。

この2トン車が木製樽(タル)で一杯になりました。
この量なら一個ずつの梱包は不要ですと言われましたが、もう遅い。
梱包も案外手間と時間、資材を必要とするのです。
既にトラックに積載していたドラム缶と木製樽(タル)は両方とも丸い理由から、
運ぶ際に転がすので、どこか共通点があります。
ドラム缶が流通するまでは液体の運搬は全て、木製樽(タル)だったのですから、
当然と言えば当然です。


2010年10月19日

酒樽屋は、頼まれれば、どんな特殊な樽(たる)も作る

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高さが480㎜という、樽屋にとっては大変作りにくいサイズの樽です。

酒樽は容量の関係で、一斗樽(たる)、二斗樽(たる)、四斗樽(タル)の三種のみでしたから、
当然、使う材料も一尺一寸、一尺五寸、一尺八寸(約34センチ、約45センチ、56センチ)の三種のみです。
昔は「樽屋竹十」南の浜辺で丸太を挽き、乾かしておりましたが、
神戸市灘区に浜辺が無くなってしまった事もあり、
全ての作業を山の中で仕上げるようになりました。

そんな訳で約一尺六寸の樽(タル)を作るには、勿体ないのは承知で、
一番長い一尺八寸の樽丸を切断するしか術はないのです。

尚かつ、この細長い樽(タル)には、青い竹ではなく、
古色がかった古いタガを使って欲しいという要望にも応えました。
何度も試作品を送って、作り直しました。何度も断念しそうになり、
断りの電話も入れた程でしたが、完成すれば良い経験になりました。


写真の完成品の手前に見える樽(タル)が一尺五寸で作った二斗樽(タル)、
向こう側に見える樽(タル)が一尺八寸で拵えた四斗樽(タル)です。

2010年10月16日

酒樽屋 「一日カフェ」へ行く

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大阪の中崎町で秋の日曜日に、一日だけのカフェがオープンします。
その名も[BAMBI(バンビ)] 伝説の神戸にあったジャズ喫茶とは関係ありません。
��人のフードコーディネーターが集まって、企画を練った催しなのです。

「ケーク・サレプレート」(ケーク・サレ2種+デリ2種+スープ+ドリンク 1,000円)が
樽屋の親方お薦めの一品です。
オリジナルドリンク、各種ドリンク、スイーツなどなども用意されている予定。


ONE DAY CAFÉ BAMBI
大阪市北区中崎町西1−6−22
��0:00〜19:00


2010年10月10日

酒樽屋が、ことのほか贔屓の小村雪岱 展

%20%E9%9B%AA%E5%B2%B1%E5%B1%95%EF%BC%92.jpg「筑波」部分

雪岱ゆかりの「泉鏡花記念館」に於いて、
「小村雪岱 幻影の美を描く」と題す特別展が開催中。

十月の前期、11月の後期とで作品が入れ替わります。

同館所蔵の生田コレクションの装丁画を中心に、先に開催していた、埼玉県立美術館蔵の版画が加わります。

没後七十年ということで、若い頃に勤めていた資生堂のミュージアムからはじまり、
雑誌の特集や展覧会が続いて、どれも人気を博しましたが、金澤で一旦終了ということでしょうか。
酒樽屋の親方は丁度、家業が忙しくなる時期なので、出かける事が出来ないのが残念です。


雪岱という雅号は鏡花の命名。
雪岱の著作『日本橋檜物町』所収「泉鏡花先生のこと」を読むと
鏡花と雪岱の深い関係が良く判ります。


 「私が泉鏡花先生に初めてお眼にかかったのは、今から三十二、三年前の二十一歳の時でした。丁度、久保猪之吉氏が学会で九州から上京され、駿河台の宿屋に泊っておられ、豊国の描いた日本で最初に鼻茸を手術した人の肖像を写すことを依頼されて、その宿屋に毎日私が通っている時に、鏡花先生御夫妻が遊びに見えられて、お逢いしたのでした。
 久保氏夫人よりえさんは、落合直文門下の閨秀歌人として知られた方で、娘時代から鏡花先生の愛読者であった関係から親交があったのです。
 当時、鏡花先生は三十五、六歳ですでに文運隆々たる時代であり、たしか「白鷺」執筆中と思いましたが、二十八、九歳の美しいすず子夫人を伴って御出になった時、白面の画工に過ぎなかった私は、この有名な芸術家にお逢い出来たことをどんなに感激したかわかりませんでした。その時の印象としては、色の白い、小さな、綺麗な方だということでした。爾来今日に至るまで、先生の知遇をかたじけなくする動機となったわけです。
 鏡花先生は、その私生活においては、大変に人と違ったところが多かったようにいわれておりますが、私などあまりに近くいたものには、それほどとも思われませんでした。何故ならば、先生の生活はすべて先生流の論理から割り出された、いわゆる泉流の主観に貫かれたもので、それを承るとまことに当然なことと合点されるのです。即ち人や世間に対しても、先生自身の一つの動かし難い個性というか、何かしら強味を持っておられた人で、天才肌の芸術家という一つの雰囲気で、凡てを蔽っておられました。その点偏狭とも見られるところもありましたが、妥協の出来ない人でした。しかしその故にこそ、文壇生活四十余年の間、終始一貫いわゆる鏡花調文学で押し通すことの出来たわけでもあり、文壇の時流から超然として、吾関せず焉の態度を堅持し得られたものと思われます。
 先生が生物(なまもの)を食べないということは有名な話ですが、これは若い時に腸を悪くされて、四、五年のあいだ粥ばかりで過ごされたことが動機であって、その時の習慣と、節制、用心が生物禁断という厳重な戒律となり、それが神経的な激しい嫌悪にまでなってしまったのだと承りました。
 大体に潔癖な方ですから、生物を食べなくなってからの先生は、如何なる例外もなく良く煮た物しか召し上がらなかった。刺身、酢の物などは、もってのほかのことであり、お吸物の中に柚子の一端、青物の一切が落としてあっても食べられない。大根おろしなども非常にお好きなのだそうですが、生が怖くて茹でて食べるといった風であり、果物なども煮ない限りは一切口にされませんでした。
 先生の熱燗はこうした生物嫌いの結果ですが、そのお燗の熱いのなんのって、私共が手に持ってお酌が出来るような熱さでは勿論駄目で、煮たぎったようなのをチビリチビリとやられました。
 自分の傍に鉄瓶がチンチンとたぎっていないと不安で気が落着かないという先生の性分も、この生物恐怖性の結果かも知れません。
 生物以外に形の悪いもの、性の知れないものは食べられませんでした。シャコ、エビ、タコ等は虫か魚か分らないような不気味なものだといって、怖気をふるっておられました。ところが一度ある会で大変良い機嫌に酔われまして、といっても先生は酒は好きですが二本くらいですっかり酔払ってしまわれる良い酒でしたが、どう間違われてか、眼の前のタコをむしゃむしゃ食べてしまわれました。それを発見して私は非常に吃驚しましたが、そのことを翌日私の所へ見えられた折に話しをしましたら、先生はさすがに顔色を変えられて、「そういえば手巾にタコの疣がついていたから変だとは思ったが——」といってられるうちに、腹が痛くなって来たと家へ帰ってしまわれた。まさか昨晩のタコが今になって腹を痛くしたのではないでしょうが、私はとんだことをいったものだと後悔しました。
 またある時、先日なくなられた岡田三郎助さんの招待で、支那料理を御馳走になったことがありました。小さな丸い揚げ物が大変に美味しく、鏡花先生も相当召し上がられたのですが、後でそれが蛙と聞いて先生はびっくりし、懐中から手ばなしたことのない宝丹を一袋全部、あわてて飲み下して、「とんだことをした」と、蒼くなっておられた時のことも今に忘れません。
 好んで召し上がられたものは、野菜、豆腐、小魚などのよく煮たものでした。
 食物の潔癖に次いで先生の出不精もよくいわれますが、これは一つには犬を大変怖がられたためもありました。もし噛みつかれて狂犬病になり、四ッん這いでワンワンなんていう病気にでもなっては大変だということからの恐怖ですが、それだけに狂犬病については医者もおよばないくらいに良く調べて知っておられました。犬の怖い先生は歩いては殆ど外出されず、そのために一々車を呼んで出歩かれました。
 雷と船も大変嫌がられましたが、これも神経的に冒険や危険に近づくことを警戒される結果と思われます。
 神仏に対する尊敬の念の厚かったことは、生来からと思われますが、神社仏閣の前では常に土下座をされて礼拝されました。私などお伴をして歩いている時に、社の前で突然土下座をされるので、先生を何度踏みつけようとしたか知れませんでした。宮城前ではどんなに乱酔されていても、昔からこの礼を忘れられたことはなく、まことにその敬虔な御様子には頭が下がりました。
 師の尾崎紅葉先生に対しても、全く神様と同様に絶対の尊敬と服従で奉仕されたそうで、三十年来、お宅の床の間には紅葉先生の写真を飾ってお供物を欠かされませんでした。
 世間では鏡花先生のを大変江戸趣味人のように思っているようですが、なるほど着物などは奥さんの趣味でしょうか、大変粋でしたが、決して「吹き流し」といった江戸ッ児風の気象ではなく、あくまで鏡花流の我の強いところがありました。
 趣味としては兎の玩具を集めておられて、これを聞いて方々から頂かれる物も多く、大変な数でした。
 お仕事は殆ど毛筆で、机の上に香を焚かれ、時々筆の穂先に香の薫りをしみ込ませては原稿を書かれていたと聞きます。
 さすがに文人だけに文字を大切にされたことは、想像以上で、どんなつまらぬ事柄でも文字の印刷してある物は絶対に粗末に出来ない性質で、御はしと刷ってある箸の袋でも捨てられず、奥さんが全部丁重に保存しておられたようで、時々は小さな物は燃やしておられました。誰でも良くやる指先で、こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかないといかんと仰言るのです。ですから先生の色紙なども数は非常に少なく、雑誌社に送った原稿なども、校正と同時に自分の手元においてお返しにならなかったように聞いております。
 煙草は子供のころからの大好物だそうで、常に水府を煙管で喫っておられました。映画なども昔はよく行かれたそうですが、煙草が喫えなくなってからは、不自由なために行かれなくなりました。
 御著書の装幀は、私も相当やらせて頂きました。最初は大正元年ごろでしたが、千章館で『日本橋』を出版される時で、私にとっては最初の装幀でした。その後春陽堂からの物は大抵やらせて頂きましたが、中々に註文の難しい方で、大体濃い色はお嫌いで、茶とか鼠の色は使えませんでした。
 このように自己というものを常にしっかり持った名人肌の芸術家でしたが、神経質の反面、大変愛嬌のあった方で、その温かさが人間鏡花として掬めども尽きぬ滋味を持っておられたのでした。
 同じ事柄でも先生の口からいわれると非常に面白く味深く聞かれ、その点は座談の大家でもありました。
 ともかく明治、大正、昭和と三代に亘って文豪としての名声を輝かされた方ですから、すべての生活動作が凡人のわれわれにはうかがい知れない深い思慮と倫理から出た事柄で、たといそれが先生の独断的な理窟であっても、決して出鱈目ではなかったのでした。
 あの香り高い先生の文章とともに、あくまで清澄に、強靭に生き抜かれた先生の芸術家としての一生は、まことに天才の名にそむかぬものでありました。」



 

2010年10月4日

酒樽屋のお八つ  其の參拾資 白梟焼き

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梟(ふくろう)は、「不苦労」、「福朗」、「福籠」、「福老」などに通じると言われ、
「蝙蝠」と同じように縁起の良い動物だと言われています。とりわけ、白い梟は森の守り神だという説も。
材料は無添加、種子島のBROWN SUGARに大島の塩が売り物ですが、味は普通。

「我が家はふくろう株式会社」
10:00~18:00 水曜日定休
神戸市灘区原田通1丁目2−19
王子動物園の向かい


2010年10月1日

酒樽屋の秋

DSC01331.JPG越後、上原酒造の軒先

今日は酒の日だそうで、各地で催しがあります。
「酒」という漢字の「酉」が十二支の十番目だからという無理なこじつけのようですけれど、

全く意味がない訳ではなく、「酉」という漢字は壷の形を現す象形文字。
壷はもちろん酒壷を意味します。
この時期には新米が収穫され、十月は新酒が醸される月でもあります。
明治期に制定された酒造法では10月から翌年九月までを酒造年度と定めました。
そんな訳で十月一日を「酒造元旦」と呼ぶ風習が一部の酒造家達の間には残っているようです。

「樽屋」の動きも変わります。
十月は各地で秋祭りがあったり、結婚式が増えたりして、酒樽の注文が集中します。

年始から、味噌樽(みそたる)、樽太鼓(たるたいこ)と御注文が続いておりましたが、
先日までの記録的な猛暑が嘘だったように、急に過ごしやすい気候になったからでしょうか、
漬物樽(つけものたる)また気温が下がったので、もう一度「味噌樽」。そして、本流の酒樽(さかだる)の製造に樽屋(たるや)の仕事も移行して行きます。
お陰で一年を通じて「樽」を作り続ける事が出来る訳ですが、
数年前までは、11月〜12月に酒樽の注文が集中して、夏期は主に底や蓋(ふた)の製作に明け暮れておりました。

2010年9月24日

新潟総踊りに樽太鼓(たるだいこ)大活躍

今年も賑やかな新潟総踊りが無事終了しました。

公演ギリギリまで傷んだ樽太鼓(たるたいこ)の修理も随分こなしました。
今年は万代太鼓や、長岡や小千谷の連、蒲原郡の弥彦の学校などへも沢山の樽太鼓(たるたいこ)を送ったので、樽屋竹十の樽太鼓(たるたいこ)が新潟で随分活躍しました。



永島鼓山先生の樽砧打ちは別格です。
いつか神戸でも公演してもらおうと画策しています。



今年の映像は未だ編集中らしいので、昨年の動画で我慢して下さい。
年々、迫力が増して来ました。
樽屋竹十の樽太鼓は、たいそう良い音が出ると評判がよく、神戸は勿論、
全国各地から沢山の樽太鼓(たるたいこ)の御注文を受けて、
在庫もすっかり無くなってしまいました。
明日は、奈良県吉野郡へ樽(たる)の材料の調達に行ってまいります。

2010年9月23日

酒樽の鏡と十五夜

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今夜は旧暦で八月五日、望月、芋名月、あるいは単に名月とも。


縁側に文机を出し,月見団子や里芋、また穫れたての野菜などを供えます。
残念ながら、今年は秋雨前線の影響で満月は見えず。
十五年前の阪神淡路大震災の夕べは真っ赤な満月でした。

満月を見ると、いつも Tom Waitsトム・ウエイツの Grapefruit Moonと、
ソウルフラワー ユニオンの「満月の夕」そして酒樽の蓋(ふた)を想起します。
蓋(ふた)のことを「鏡(かがみ)」とは呼びますが、「満月」云々とは謂いません。
隅に付いている木栓は「天星」と呼ぶのですけれど..............





月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月 よみ人知らず

2010年9月9日

酒樽屋の輪替

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先日の落語の「たが屋」と作業は似ておりますが、少々違います。
「たが屋」のお客さんは、もっぱら市井の奥様方でしたけれど、
これは造り酒屋の蔵の中に入って酒造道具のメンテナンスをする際の価格協定表です。
酒樽屋の組合(この場合は、その中の桶部門)と酒造組合が定期的に集まって、
少しずつ値上げされておりました。

これは大正10年のものですが、毎年のように改訂され続けて、最近ではこのような明細は作りませんが、今でも木桶や木の道具を使った昔の酒造りを継承している蔵がいくつか残っているので、道具の手入れや新調は、蔵開きの前の夏の仕事になります。