2009年6月17日

酒樽屋 短編小説「セメント樽の中の手紙」を読む

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葉山嘉樹の超短編小説なので、全文を紹介します。

蟹工船」のリバイバルに連動しているのか、こちらも新刊の文庫で読む事が出来ます。
葉山嘉樹は実際にセメント工場で働いていた事があるそうです。


ちょっと昔まで、セメントや釘など、何でも樽(たる)に入れて輸送しておりました。
樽屋竹十が作る樽(たる)とは全く違う洋樽(たる)で、材料も雑木を使っていました。
いまでは、この種の樽(たる)を使うのは珈琲豆屋さん位です。

『セメント樽の中の手紙』大正15年(1925年)作。


 松戸與三はセメントあけをやってゐた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽はれていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鐵筋コンクリートのやうに、鼻毛をしゃちこばらせてゐる、コンクリートを除りたかったのだが一分間に十才ずつ吐き出す、コンクリートミキサーに、間に合はせるためには、とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった。

 彼は鼻の穴を氣にしながら遂々十一時間、――その間に晝飯と三時休みと二度だけ休みがあったんだが、晝の時は腹の空いてる為めに、も一つはミキサーを掃除してゐて暇がなかったため、遂々鼻にまで手が届かなかった――の間、鼻を掃除しなかった。彼の鼻は石膏細工の鼻のやうに硬化したやうだった。

 彼が仕舞時分に、ヘトヘトになった手で移した、セメントの樽(たる)から小さな木の箱が出た。

「何だろう?」と彼はちょっと不審に思ったが、そんなものに構っては居られなかった。彼はシャヴルで、セメン桝にセメントを量り込んだ。そして桝から舟へセメントを空けると又すぐその樽を空けにかかった。

「だが待てよ。セメント樽から箱が出るって法はねえぞ」
 彼は小箱を拾って、腹かけの丼の中へ投り込んだ。箱は輕かった。
「輕い處を見ると、金も入っていねえやうだな」
 彼は、考へる間もなく次の樽を空け、次の桝を量らねばならなかった。

 ミキサーはやがて空廻りを始めた。コンクリがすんで終業時間になった。
 彼は、ミキサーに引いてあるゴムホースの水で、一と先づ顔や手を洗った。そして辨當箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食ふことを專門に考へながら、彼の長屋へ帰って行った。發電所は八分通り出氣上ってゐた。夕暗に聳える恵那山は眞っ白に雪を被ってゐた。汗ばんだ體は、急に凍えるやうに冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えてゐた。

「チヱッ! やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている子供のことや、又此寒さを目がけて産れる子供のことや、滅茶苦茶に産む嬶の事を考へると、全くがっかりしてしまった。

「一圓九十銭の日當の中から、日に、五十銭の米を二升食はれて、九十銭で着たり、住んだり、箆棒奴! どうして飲めるんだい!」
 が、フト彼は丼の中にある小箱の事を思ひ出した。彼は箱についてるセメントを、ズボンの尻でこすった。

 箱には何にも書いてなかった。そのくせ、頑丈に釘づけしてあった。
「思わせ振りしやがらあ、釘づけなんぞにしやがって」
 彼は石の上へ箱を打っ付けた。が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす氣になって、自棄に踏みつけた。
 彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た。それにはかう書いてあった。

 ――私はNセメント會社の、セメント袋を縫ふ女工です。私の戀人は破砕器(クラッシャー)へ石を入れることを仕事にしてゐました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。
 仲間の人たちは、助け出さうとしましたけれど、水の中へ溺れるやうに、石の下へ私の戀人は沈んで行きました。そして、石と戀人の體とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鐵の弾丸と一緒になって、細く細く、はげしい音に呪の声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなりました。
 骨も、肉も、魂も、粉々になりました。私の戀人の一切はセメントになってしまいました。殘ったものはこの仕事着のボロ許りです。私は戀人を入れる袋を縫ってゐます。
 私の戀人はセメントになりました。私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。
 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい。

 此樽(たる)の中のセメントは何に使はれましたでしょうか、私はそれが知りたう御座います。
 私の戀人は幾樽(たる)のセメントになったでせうか、そしてどんなに方々へ使はれるのでせうか。あなたは佐官屋さんですか、それとも建築屋さんですか。
 私は私の戀人が、劇場の廊下になったり、大きな邸宅の塀になったりするのを見るに忍びません。ですけれどそれをどうして私に止めることができませう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな處に使はないで下さい。
 いいえ、ようございます、どんな處にでも使って下さい。私の戀人は、どんな處に埋められても、その處々によってきっといい事をします。構ひませんわ、あの人は氣象の確かりした人ですから、きっとそれ相當な働きをしますわ。
 あの人は優しい、いい人でしたわ。そして確かりした男らしい人でしたわ。未だ若うございました。二十六になった許りでした。あの人はどんなに私を可愛がって呉れたか知れませんでした。それだのに、私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せてゐるのですわ! あの人は棺に入らないで回轉窯の中へ入ってしまひましたわ。
 私はどうして、あの人を送って行きませう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られてゐるのですもの。
 あなたが、若し労働者だったら、私にお返事下さいね。その代り、私の戀人の着てゐた仕事着の裂を、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがさうなのですよ。この裂には石の粉と、あの人の汗とが浸み込んでゐるのですよ。あの人が、この裂の仕事着で、どんなに固く私を抱いて呉れたことでせう。
 お願ひですからね。此セメントを使った月日と、それから委しい所書と、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかったら、是非々々お知らせ下さいね。あなたも御用心なさいませ。さやうなら。

 松戸與三は、湧きかへるやうな、子供たちの騒ぎを身の廻りに覺えた。
 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻あった。
「へべれけに酔っ払ひてえなあ。さうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。
「へべれけになって暴れられて堪るもんですか、子供たちをだうします」
 細君がさう云った。
 彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。


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