2005年2月27日

灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎

神戸市東灘区にある旧高嶋平介邸(現高嶋酒類食品株式会社資料館)で「甲南漬物語」という催しがあり、高嶋家が元樽屋だったご縁からか、「高嶋家が育てた小説家 十一谷義三郎」というタイトルで話をする機会がありました。
主催は旧乾邸活用応援倶楽部という団体です。
わたしの話の導入部は故生田耕作氏が晩年、口述筆記されていたもの(「鏡花本今昔」所収)を未亡人のお許しを得て引用させて頂きました。生田耕作夫妻もすぐそばに住んでおられたことがあります。
参加された方の中には実際に映画をご覧になられた人もいらして、たいそう懐かしがっておられました。又、別の方は十一谷賞という文学賞が昭和16年頃に何度か設けられたものの戦争で立ち消えになったらしく、直木賞ではなく十一谷賞になっていたかも知れませんねと回想されておられました。

  


以下は二月二十六日、雪の日に話した全文です。

十一谷義三郎
『今日は、ここ甲南漬の高嶋家と深い関わりのある小説家十一谷義三郎とその周辺についてについて、限られた時間ですけれど、お話したいと思います。
この十一谷義三郎という人は、今は忘れ去られた作家ですが、昭和の始めの頃はベストセラー作家でありました。
代表作に「唐人お吉」と「神風連」(しんぷうれん)という長編があり、いずれも映画化されております。 
「唐人お吉」は・・・昭和三年中央公論に連載すぐ(木村荘八の挿絵装丁で)単行本化そして翌5年には溝口健二監督、主演梅村蓉子(うめむらようこ)で映画化されました。
奇しくもここ高嶋邸が完成した年です。
続いて昭和9年には、「神風連」も新聞連載のすぐあとに中央公論社から、(こちらは川端龍子の木版画装で単行本になり、昭和9年にやはり同じ溝口健二監督のメガホンで、(日本橋の芸者「小勝」を)入江たか子、(鮫島を)月形竜之介という、錚々たるメンバーによって映画化されております。
勿論これらは白黒の無声映画です。
当時の豪華キャストで、十一谷義三郎のふたつの長編小説が広く世に知られた訳です。
残念ながら、この二本のフィルムは太秦撮影所にあるらしいのですが観ることは出来ないようです。
ヴィデオなどの存在をご存知の方がいらっしゃるようでしたら是非お知らせ下さい。

さて、この十一谷義三郎と高嶋家の関わりは何だったのかということですが、みなさんが今いらっしゃるこの旧高嶋邸の南、国道を挟んだ向かい側、甲南漬の本社の横に「明徳軒」という文化サロンのような塾がありました。
十一谷義三郎は12歳の時に「明徳軒」に入ることを許され、18歳までここで学んでおります。
「明徳軒」というのはお酒の「愉快」や「金世界」という銘柄で有名だった酒造家二代目高嶋太助が創設したもので。大新場(おおしんば)と高嶋家では呼び慣らしていたのですが、甲南漬の本家に当たる所です。この人物は慈善事業に心を砕いた方でして、「明徳軒」は、成績優秀なのに、家計の事情で進学できない子供たちを援助する活動もしておりました。
��8坪の敷地に40坪の白い洋館で、図書室があり、音楽会なども開かれていたようで、
図書室には質の高い蔵書が多数あって、十一谷義三郎は自由な時間は殆ど「明徳軒」に入り浸り、文学書や仏教書をひもとき、蔵書は手当たり次第に「読破したり」と後に回想しております。 

十一谷義三郎は、12歳の時に父親を結核で亡くし、兄は家出し母と二人の弟を養うはめになり、二代目高嶋太助に引き取られました。
何故ここに引き取られたか、というと、太助の奥さんの父親、河西善兵衛の店「網善」の番頭を義三郎の父親がしていたという縁であったようです。
高嶋家における義三郎の立場は、小僧さんのようなもので、体が生まれつき弱かった為、通学しながら、酒屋の下働きではなく屋敷内の家事の手伝いをしていました。
風呂焚きをしたり、豆腐を買いにお使いに行かされたり、畑仕事を手伝ったりしました。
「明徳軒」は、小説家十一谷義三郎の基盤をつくった場所であったといえましょう。

義三郎はドイツ語も独学で習得しました
義三郎は五人兄弟の三男で明治30年に元町三丁目で生まれました。
当時の元町はご存知のように西側の方が賑やかで、6丁目から三越、そごう、大丸、高島屋と百貨店が並び、珍しい舶来の物がたくさん並んでいました。
東には居留地があり、そして南京町、南には波止場があって、船員相手の娼婦が並んでいました。
そして西側には賀川豊彦が奮闘した新川(今の宇治川)、という地域があって、こういう神戸ならではの華やかなものと、どん底の世界の両方を義三郎は目の当たりにしながら育ちました。
それが後の彼の作品に顕著に現れてきます。

父親春吉は高嶋家の親戚河西家、網善というマッチの材料を商う薬問屋の番頭だったんですが、結核に罹り、仕事が出来なり、兄と母と二人の弟だけになってしまったため、先程話しましたように東明に引っ越して来て、高嶋家に奉公に入った訳です。
その後、兄の再三の家出、弟の病死などがあり、苦労の中、進学しています。
神戸一中(今の神戸高校ですね)、京大、最後に東京帝国大学英吉利文学科に入学したんですが、其の影には、いつも高嶋太助氏がいました。
しかし昭和6年に高嶋氏が亡くなるまで、決して高嶋の名は表に出しませんでした。
それでなくても自分のことを殆ど書き残さなかった作家でしたので研究者泣かせです。
京大を経て東京帝国大学英文科(川端康成は中途で国文へ編入しました)卒業後、与謝野晶子夫妻に招かれまして文化学院の英文学の主任教授になりました。
この頃忘れてはならない「文藝時代」という雑誌の同人に加わっております。
川端康成、、そして神戸に関わりの深い今東光、横光利一、稲垣足穂等が中心になりました。
そして十一谷より二つ年下の川端康成が昭和元年に「伊豆の踊り子」をこの雑誌に連載しております。
偶然ですが、舞台は「唐人お吉」と同じ伊豆です。川端との類似点は多いのです。
関西人(大阪生まれ)であること。幼くして親を亡くしたこと。貧困と苦学、死への願望。病弱な秀才であること。
川端は自殺しましたが、十一谷も緩慢な自殺といえるかもしれません。
何故なら蝙蝠のパッケージのゴルデンバットを一日に15函も吸っていたいたのですから。
原稿用紙に蝙蝠のマークを入れていた程です。
「僕の人生は花束の代りに金の蝙蝠で蔽われさうだ」と「バット馬鹿の告白」というエッセイに書き留めています。
十一谷の小説の舞台はいつも港町です。
しかし、神戸を舞台にした作品は「街の犬」という居留地を舞台にした短編ときょうおん「跫音」という未完の二編しかありません。
そして主人公はいつも、孤児、精神病者、貧民窟の人々、体の不自由な人たち、売春婦すなわち遊女、(義三郎は南京妾と呼んでいました)乞食、屑屋、下級船員などですが、洗練された文体から決して暗くはないのです。
港町の持っている退廃的であると同時にロマン的なものが根底にあるからでしょう。
独自の文体、練り上げられ磨き上げられた端正な文章、徹底した時代考証、技巧を尽くした構成は彼独特の芸術至上主義に裏づけされたものです。
昭和の泉鏡花といはれた由縁です。

川端康成は横光や十一谷たちについて「末期の眼」昭和8年(1933)というタイトルの
の文章を書いております。
ちょっと引用いたします。「あらゆる藝術の極意はこの「末期の眼」であろう。
死にゆく者が世の中を眺める眼差し、死の覚悟を持って対象を見据える眼差し。」

「生への執着を断った純粋な眼差し」

自己と対象とのあいだに埋めることの出来ない絶対的な距離が介在し、それゆえに
「美」が現象する。「文字そのものに現象をぎりぎりと刻み込んだような感じ」
と川端が言うように、そういう超越した視点を持って十一谷は作品を書いております。

又、川端は十一谷が亡くなった昭和12年にこのような追悼文を寄せています。

重い荷物を負って遠い道を行くやうに生きて来た十一谷君が、そのしんの強さを私も慕っていた十一谷くんが、軽い荷物も逃げ歩いてばかりいるやうな私より先に死ぬとは・・・・・・・・

かつて甲南漬の名物というか生き字引というか名番頭といわれた堀田一郎さんという方がいらっしゃいました。
実は、私は以前から十一谷義三郎に興味を持ち、今から20年以上前に十一谷のことについて堀田さんに話をうかがったことがあります。
堀田さんと十一谷はひとつ違いで同じ頃に高嶋家に入ったそうです。
堀田さんはここ甲南漬に、十一谷は本家の奉公人だったのです。
堀田さんの話によると十一谷はその頭脳明晰さを認められ本家のご主人に殊の外可愛がられていたそうです。
堀田さんは高嶋平介商店を定年でお辞めになってからも、高嶋邸のすぐそばにお住まいでしたから、色々と十一谷について私が聞き書きしているうちに残念ながらお亡くなりになってしまいました。
今ここ高嶋邸で皆さんにお話できるとは思いもよりませんでした。

東灘ゆかりの作家といえば、郡虎彦と並ぶ作家だと言えると思いますが、39歳で死んだという事と、文壇との交流が少なかったからか先の二人と違って、生前32点の著書を出し、アンソロジーを入れると70冊以上になるのに単独の全集は未だに出版されていません。
ネット上で「青草」を読むことが出来ます。
最近、同じ東灘の須川さんという方の製本でこんな5編だけを選んだ、瀟洒な書物が出版されました。・・・・・・・「EPI叢書の十一谷義三郎 五篇」 

明徳軒から何人かの人が高嶋氏の世話で東大に進学していますが、最初の卒業生に川西実三(じつぞう)がいます。1889(明治22)兵庫県生~1978(昭和53)享年89歳。
当時帝国大学に行って学士さんになるということは、今と違って大変なことでした。
��914 東京大学独逸法律部卒、
新渡戸稲造に学び、内務省勤務の後同氏は 第一次大戦時、スイスのILO(国際労働機関)在、日本事務所に赴任し、帰国後、
��932 (昭和7年)内務省社会局保険部長
埼玉知事、長崎知事、京都知事(昭和15)、東京知事(昭和13)を歴任、
��942 退官
��952 (昭和27)済生会理事長
��965 (昭和40)厚生年金会館理事長 第9代日赤社長になりました。(総裁は皇后)
��968,2(昭和43)辞任
��971(昭和46)日本ILO会長を最後に引退 
��978(昭和53)死去 89歳

明徳軒は昭和10年に高嶋本家が廃業する前に閉鎖されますけれど、それと前後して、殿村善四郎という人が友月庵という私設図書館をもう少し東に作ります。
江戸時代から、この辺り御影を中心に灘五郷には造酒屋の旦那さん方も多くお住まいで、揃って裕福で、ご自身も趣味人でしたから、与謝蕪村、頼山陽、大田南畝など江戸の文人たちがこぞって立ち寄り寺子屋の元になる文化を残していってくれました。
十一谷が5歳の時通った寺子屋も某漢詩人が作ったものだと言われております。白鶴の嘉納治兵衛さんをはじめ高嶋さんも地域に利益を還元してきました。桜正宗の山邑さんはライトに別荘を依頼しました。
嘉納さんは昭和7年に高嶋邸と同じ清水栄二氏の設計でドイツ表現派の建物、御影公会堂を造る時に、そのうちの殆どを寄付しています。
その後、ご自身のコレクションを収蔵する為に贅を尽くしたあの白鶴美術館を、公会堂の何倍もの費用を使って建てております。
そういう土壌ですから六甲山麓、阪神間という場所は比類なき文化圏として、もっと自慢していいのではないでしょうか。』