2009年6月30日

吉野杉を使った木樽の作り方 その10 蓋(フタ)を作る

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一斗樽(タル)の底です。
樽作りには樽丸に次いで底と蓋(フタ)が重要な役割を果たします。
竹箍(タガ)や木栓類も無くなると樽(タル)を作る事が出来なくなります。
順番が逆になりますが、樽(タル)の底に接着剤を使わず、竹釘を使って欲しいという依頼があったので、紹介します。

ハウスシックやアトピーで化学的接着剤に対するアレルギーが甚だしいのだそうです。
木工用ボンドはチューインガムの原料になるくらいですから、口に入れても害はありませんが、アレルギーの方には通用しません。

写真のように、何枚かの吉野杉を竹釘を使って継いで行きます。(「そこはぎ」と謂います)
端の半月形の部分を何故か「ビンタ」と呼びます。
他の底蓋を作る時に余った小さい材料を使えるので重宝します。

「ビンタ」は鹿児島弁の頭部をさす方言からではないかと思われます。
この部分を底蓋(フタ)では木頭と呼び、洩れない為に犠牲になる大事な部分なのです。

2009年6月28日

明治初年の樽屋(たるや)竹十付近

1900_kura.jpg写真「沢の鶴資料館」提供

先の大戦までは、樽屋竹十の前は浜辺でした。
味泥から今津までの灘五郷全域が海に面しておりました。
ここから、樽に詰めた酒を江戸へ運び、江戸からは上方では不足している物を積んで戻っていました。
樽(タル)の材料になる吉野杉の原木も、この浜に着きました。
この広い浜辺を利用して、吉野杉を酒樽に使い易い樽丸に加工していたものです。

なによりも樽屋や作り酒屋にとって、この浜辺は格好の作業場だったのです。
蔵元も今頃の時期は酒造りに欠かせない大桶を丁寧に洗って何本も並べて乾かしておりました。
つい最近までの光景です。





2009年6月27日

酒樽屋の虫養ひ 其の拾貳

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駅前の立ち食い饂飩です。わずか200円!(100円代もありましたが)
「ラーメンた○う」というチェーン店がありますけれど、
ここは「うどん太郎」といいます。電話はないようですが、味は200円以上です。
うどんの丼はこの椀型でなければなりません。
口の広い器に入れて量を多く見せても、饂飩がのびる上に冷め易くなります。
ものの本によれば、饂飩の方が蕎麦よりも遥かに歴史が古いのだそうです。

 闇のとぎれる饂飩屋の前    「武玉川」第二篇




2009年6月26日

酒樽をつくるための材料、樽丸が届く

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奈良県吉野郡川上村から、トラック満載で樽の材料の最も重要な「樽丸」が届きました。
山奥ですから、神戸まで 慣れた人で2時間、我々だと3時間はかかります。
日本有数の雨が多い地域ですが、今年は梅雨らしくなく、杉の生育に影響します。
川上村の吉野杉が樽作りには最上の材料です。
樽酒の香りも全く違います。

今回は甲付の樽丸が不足気味でしたので、余分に積んでもらいました。
どんなに腕の立つ樽職人でも、材料が悪いと良い樽は出来ません。
良い樽丸を使うと仕事も楽ですし、良い樽が出来るので気分が良いものです。



2009年6月25日

酒樽屋は全国へ樽(タル)を発送する

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毎日のように電話やFAX,メールによる樽の注文を頂き、漬物樽、樽太鼓、酒樽.......
それぞれが違う形の樽ですから、作るのも大変ですけれど、梱包にも結構手間取ります。
通販をしている以上は避けられない工程です。

樽は形が丸いので、力強く紐を巻く事は案外むつかしいのだそうです。
樽屋竹十では「菰(コモ)」も巻きますから、その手法を応用すれば梱包は簡単です。
送った樽を褒めて下さったついでに、その樽の梱包まで褒めて下さった方がおられた事があり、
ちょっと恥ずかしい思いをした事があります。
樽屋竹十では海外発送の際は段ボールを用いますが、普段は写真のようにエアーキャップを使います。
面倒な時は専用の段ボール函に詰めてテープを貼って完成という方法も取りますけれど、
さすがに、高さ一尺八寸(約56センチ)の四斗樽(72リットル)は段ボール函に入れると、嵩張るので出来る限り裸で送ります。
稀に気が向いた日には余った菰を使うこともあります。
菰(コモ)は、あくまで輸送用のプロテクターであることを再認識します。
但し、縄だけは作業中に埃は立つし、手は荒れるし、下手に扱うと切れますので苦手です。





2009年6月24日

酒樽屋は頼まれれば変形の樽(タル)も作る

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特殊な注文の樽です。
水を入れ、更に氷も入れて、「缶入の茶」を沢山冷やして、店頭だか何かの催しに並べるのだそうです。
詳しい事は判りません。高さ25センチで、直径55センチ位の樽は出来るかと問われたので、
「出来ます」と答え、翌日は朝から「ハンダルセット」という特殊な樽を原型にして作って見ました。
変わった注文が来ると俄然、元気になります。失敗もありますが、うまく出来上がると
これ程、うれしい事はありません。
静岡の方からの注文の樽だったので、お茶を入れる事には違いないでしょう。

酒樽屋ですから、高さが約56センチ、直径も56センチ以上の樽を作る事は困難です。





2009年6月23日

酒樽屋は樽太鼓を毎日つくる

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一斗(18リットル)の樽太鼓です。
高さを示して34型樽太鼓とも、樽太鼓の「小」とも呼びます。
樽屋竹十が出荷する樽太鼓の7〜8割はこの大きさの樽太鼓です。
いづれ、呼び名を判り易いように統一する積もりです。

使われ方は一番が小学校や幼稚園の音楽会等。そして地域の祭りなど。
八木節、ヨサコイ、樽砧、阿波踊り..................さまざまな催しに使われます。
それぞれ樽太鼓保存会を作られて、努力されておられるので、樽屋竹十も、
出来る限りよい音が、永年に渡って変わらないように工夫して作っております。

かつて納めた漬物樽(タル)を膨らませている

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数ヶ月前に漬物樽(タル)を納入した食品会社の店先を通ったら、大小の漬物樽(タル)に、
水を張っておりました。
ご主人は不在でしたが、一度使った漬物樽(タル)が乾いて水を張って洩れをとめていたのでしょう。
「アクヌキ」も同じようにします。
ただし、蓋(フタ)はあまり「アクヌキ」しないのですが、蓋(フタ)からも「アク」は出るのかも知れません。
この写真の場合は単に、漬物樽(タル)の蓋(フタ)が行方不明になったりしたら面倒なので、
一緒に掘り込んだのでしょう。
ご主人が作業されている時に又、詳しい事を訊いておきましょう。



2009年6月22日

酒樽屋の虫養ひ 其の拾壱

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お昼セットの中の一鉢で、これが単品ではありません。

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美々卯本店の「花ゆば」

〒541-0046 大阪府大阪市中央区平野町4-6-18    
�� E L  06-6231-5770
営 業 時 間  11:30~21:30 (ラストオーダー/20:30)
定 休 日  日曜・祝日


2009年6月20日

青函連絡船に乗って海を渡る樽太鼓

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先日、北海道の小学校へ樽太鼓を送りました。
かつて、この青函連絡船を利用して、沢山の樽(タル)を北海道へ送ったものです。
当時は樽太鼓ではなく、酒樽でしたが..............

青森といえば、林檎と恐山を思い出しますが、最近は太宰治と寺山修司の二人が再評価されています。
太宰治の本名は津島修治。
昨日が命日で、今年が生誕百年だそうです。
青森には修さんが多いのでしょうか。

ミュージシャンでは泉谷しげるさんと三上寛でしょう。


誰か死ねり口笛吹いて炎天の街をころがしゆく樽一つ 寺山修司

少し前までは、古樽が町中に転がっていて、子供達にとって格好の玩具でした。

2009年6月19日

公的機関への樽太鼓の通販には沢山の書類が必要なのです

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一般の方は、樽太鼓の注文に、こんな面倒な手続きはありません。
電話一本、メール、FAXなどで樽太鼓を注文出来ます。
今の時期は酒樽が閑なため、樽太鼓の製作の最中ですから、特殊な樽太鼓以外は在庫があります。
大きな太鼓樽も数個の在庫はありますし、
漬物樽や味噌樽も地方によっては6月の醗酵が盛んな時期に仕込む所もあります。

何より今は「梅干し用の漬物樽」の注文を多く頂きます。

2009年6月18日

壁下地を利用した助枝窓(れんじまど)

左官屋さんで思い出しましたが、樽(たる)の箍(たが)使う竹の残りを使って、昔は壁下地を作っておりました。昔は佐官と書いたのですね。
樽屋(タル)の小僧は余った竹の寸法を合わせて左官屋さんに運んだものです。
今、その需要は殆どありませんが、連子窓(れんじまど)にだけ、かすかに名残をおいています。

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2009年6月17日

酒樽屋 短編小説「セメント樽の中の手紙」を読む

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葉山嘉樹の超短編小説なので、全文を紹介します。

蟹工船」のリバイバルに連動しているのか、こちらも新刊の文庫で読む事が出来ます。
葉山嘉樹は実際にセメント工場で働いていた事があるそうです。


ちょっと昔まで、セメントや釘など、何でも樽(たる)に入れて輸送しておりました。
樽屋竹十が作る樽(たる)とは全く違う洋樽(たる)で、材料も雑木を使っていました。
いまでは、この種の樽(たる)を使うのは珈琲豆屋さん位です。

『セメント樽の中の手紙』大正15年(1925年)作。


 松戸與三はセメントあけをやってゐた。外の部分は大して目立たなかったけれど、頭の毛と、鼻の下は、セメントで灰色に蔽はれていた。彼は鼻の穴に指を突っ込んで、鐵筋コンクリートのやうに、鼻毛をしゃちこばらせてゐる、コンクリートを除りたかったのだが一分間に十才ずつ吐き出す、コンクリートミキサーに、間に合はせるためには、とても指を鼻の穴に持って行く間はなかった。

 彼は鼻の穴を氣にしながら遂々十一時間、――その間に晝飯と三時休みと二度だけ休みがあったんだが、晝の時は腹の空いてる為めに、も一つはミキサーを掃除してゐて暇がなかったため、遂々鼻にまで手が届かなかった――の間、鼻を掃除しなかった。彼の鼻は石膏細工の鼻のやうに硬化したやうだった。

 彼が仕舞時分に、ヘトヘトになった手で移した、セメントの樽(たる)から小さな木の箱が出た。

「何だろう?」と彼はちょっと不審に思ったが、そんなものに構っては居られなかった。彼はシャヴルで、セメン桝にセメントを量り込んだ。そして桝から舟へセメントを空けると又すぐその樽を空けにかかった。

「だが待てよ。セメント樽から箱が出るって法はねえぞ」
 彼は小箱を拾って、腹かけの丼の中へ投り込んだ。箱は輕かった。
「輕い處を見ると、金も入っていねえやうだな」
 彼は、考へる間もなく次の樽を空け、次の桝を量らねばならなかった。

 ミキサーはやがて空廻りを始めた。コンクリがすんで終業時間になった。
 彼は、ミキサーに引いてあるゴムホースの水で、一と先づ顔や手を洗った。そして辨當箱を首に巻きつけて、一杯飲んで食ふことを專門に考へながら、彼の長屋へ帰って行った。發電所は八分通り出氣上ってゐた。夕暗に聳える恵那山は眞っ白に雪を被ってゐた。汗ばんだ體は、急に凍えるやうに冷たさを感じ始めた。彼の通る足下では木曾川の水が白く泡を噛んで、吠えてゐた。

「チヱッ! やり切れねえなあ、嬶は又腹を膨らかしやがったし、……」彼はウヨウヨしている子供のことや、又此寒さを目がけて産れる子供のことや、滅茶苦茶に産む嬶の事を考へると、全くがっかりしてしまった。

「一圓九十銭の日當の中から、日に、五十銭の米を二升食はれて、九十銭で着たり、住んだり、箆棒奴! どうして飲めるんだい!」
 が、フト彼は丼の中にある小箱の事を思ひ出した。彼は箱についてるセメントを、ズボンの尻でこすった。

 箱には何にも書いてなかった。そのくせ、頑丈に釘づけしてあった。
「思わせ振りしやがらあ、釘づけなんぞにしやがって」
 彼は石の上へ箱を打っ付けた。が、壊われなかったので、此の世の中でも踏みつぶす氣になって、自棄に踏みつけた。
 彼が拾った小箱の中からは、ボロに包んだ紙切れが出た。それにはかう書いてあった。

 ――私はNセメント會社の、セメント袋を縫ふ女工です。私の戀人は破砕器(クラッシャー)へ石を入れることを仕事にしてゐました。そして十月の七日の朝、大きな石を入れる時に、その石と一緒に、クラッシャーの中へ嵌りました。
 仲間の人たちは、助け出さうとしましたけれど、水の中へ溺れるやうに、石の下へ私の戀人は沈んで行きました。そして、石と戀人の體とは砕け合って、赤い細い石になって、ベルトの上へ落ちました。ベルトは粉砕筒へ入って行きました。そこで鋼鐵の弾丸と一緒になって、細く細く、はげしい音に呪の声を叫びながら、砕かれました。そうして焼かれて、立派にセメントとなりました。
 骨も、肉も、魂も、粉々になりました。私の戀人の一切はセメントになってしまいました。殘ったものはこの仕事着のボロ許りです。私は戀人を入れる袋を縫ってゐます。
 私の戀人はセメントになりました。私はその次の日、この手紙を書いて此樽の中へ、そうと仕舞い込みました。
 あなたは労働者ですか、あなたが労働者だったら、私を可哀相だと思って、お返事下さい。

 此樽(たる)の中のセメントは何に使はれましたでしょうか、私はそれが知りたう御座います。
 私の戀人は幾樽(たる)のセメントになったでせうか、そしてどんなに方々へ使はれるのでせうか。あなたは佐官屋さんですか、それとも建築屋さんですか。
 私は私の戀人が、劇場の廊下になったり、大きな邸宅の塀になったりするのを見るに忍びません。ですけれどそれをどうして私に止めることができませう! あなたが、若し労働者だったら、此セメントを、そんな處に使はないで下さい。
 いいえ、ようございます、どんな處にでも使って下さい。私の戀人は、どんな處に埋められても、その處々によってきっといい事をします。構ひませんわ、あの人は氣象の確かりした人ですから、きっとそれ相當な働きをしますわ。
 あの人は優しい、いい人でしたわ。そして確かりした男らしい人でしたわ。未だ若うございました。二十六になった許りでした。あの人はどんなに私を可愛がって呉れたか知れませんでした。それだのに、私はあの人に経帷布を着せる代りに、セメント袋を着せてゐるのですわ! あの人は棺に入らないで回轉窯の中へ入ってしまひましたわ。
 私はどうして、あの人を送って行きませう。あの人は西へも東へも、遠くにも近くにも葬られてゐるのですもの。
 あなたが、若し労働者だったら、私にお返事下さいね。その代り、私の戀人の着てゐた仕事着の裂を、あなたに上げます。この手紙を包んであるのがさうなのですよ。この裂には石の粉と、あの人の汗とが浸み込んでゐるのですよ。あの人が、この裂の仕事着で、どんなに固く私を抱いて呉れたことでせう。
 お願ひですからね。此セメントを使った月日と、それから委しい所書と、どんな場所へ使ったかと、それにあなたのお名前も、御迷惑でなかったら、是非々々お知らせ下さいね。あなたも御用心なさいませ。さやうなら。

 松戸與三は、湧きかへるやうな、子供たちの騒ぎを身の廻りに覺えた。
 彼は手紙の終りにある住所と名前を見ながら、茶碗に注いであった酒をぐっと一息に呻あった。
「へべれけに酔っ払ひてえなあ。さうして何もかも打ち壊して見てえなあ」と怒鳴った。
「へべれけになって暴れられて堪るもんですか、子供たちをだうします」
 細君がさう云った。
 彼は、細君の大きな腹の中に七人目の子供を見た。


2009年6月16日

吉野杉を使った木樽の作り方 その9 蓋(フタ)を入れる

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8で作った溝に蓋(ふた)を入れるのですが、この作業のためもあって、蓋(フタ)の中心を
竹釘で継いであり、ここが割れて「鏡開き」になる訳です。
樽屋竹十の樽(タル)は他の部分も竹釘を使って接着剤を一切使っていないのですが、
樽太鼓(タルたいこ)の場合も出来る限り化学的接着剤は使わないように努めております。 

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最後に、木槌を使って完全に蓋(フタ)を溝の中に嵌め込みます。
更に小槌を使い、微調整します。
酒樽の場合も樽太鼓(タルたいこ)の場合も工程は同じですが、
樽太鼓(タルたいこ)の場合は箍(タガ)を強く締めて、良い音が出るようにします。





酒樽屋は毎日タル太鼓を出荷する

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毎年、この時期には樽太鼓(タルたいこ)の注文が酒樽の注文を上回ります。
樽屋竹十は樽太鼓屋に変身します。
毎日が樽太鼓(タルたいこ)製作の合間に酒樽(タル)を作るという変な形態になります。

各地の学校の音楽会用を始め、八木節ソーラン節阿波踊りと夏に向って練習を重ねる時期なので、
今頃の時期が樽太鼓(タルタイコ)を販売する季節なのでしょう。

2009年6月14日

酒樽屋もホタルを愛でる

B000OT8JV4-1.09.LZZZZZZZ.jpgビクターエンタテイメント

ホタルの季節です。
近所の裏山をはじめ、全国各地の名所で「ホタル鑑賞会」なるものが開催されています。
昔はタル酒持参でホタルを愛でたことでしょう。

画像が上手く撮れなかったので、レミオロメンのシングルCDジャケットをお借りしました。
この中の一曲「ホタル」は映画「眉山」の為の書き下ろしです。
徳島に眉山という山があるのですね。
タル太鼓を使う阿波踊りがキーワードになっている映画です。
今はDVDも発売しています。

樽屋はてっきり、川上眉山の伝記映画だと思い込んでおりました。

満渓蛍火乱昏黄 透竹穿藤各競光
吟歩不愁還入夜 借将余照渡山梁
菅茶山 螢七首より

2009年6月13日

酒樽屋には来訪者が続く日が多い

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昨日は「奈良県吉野郡川上村 かみせ大使」であり、AMITA関連の会社「株式会社トビムシ」の古川大輔さんが来られました。樽屋竹十は来客の多い店なのですけれど、
古川さんは少々異色です。

川上村さぷりのHP製作に携わった方で、しかも若いからフットワークが良い。
木材のなん樽かの基本をふまえて話が進むので、話題は大きく展開、あっという間の二時間でした。
偶然作っていた、川上村産杉製四斗漬物樽を友人のために買って帰られました。
都会生まれ都会育ちの彼は樽の材料としての樽丸を作っている川上村に学生時代に住みつき、物の見方が一転した由。川上村も新しい「空気」が入り、様変わりしたそうです。

あなたは森を見た事がありますか?


2009年6月12日

吉野杉を使った木樽の作り方 その8 蓋(フタ)のための溝をつくる

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「ありきり」といいます。
かつて道具の項で紹介したことのある、同名の「ありきり」という▷型溝の付いた物を使い、
樽(たる)の蓋(ふた)が嵌まる部分に溝を作ります。
むかしは、この溝を作らずに蓋(ふた)をはめて、鏡開き専用にし、
「アリナシ」という特殊な樽(たる)を作っておりました。
最近は箍(たが)を機械で強く締めるため、自然に溝が出来て区別が出来なくなり、
特別な依頼のない限り「アリナシ」は稀にしか作りません。
また、底の部分にも、同じような溝を作る方法もありますが、
底の直径が完全に同じで、かつ樽(たる)本体の内径も寸分変わらない、機械式の樽(たる)でないと、洩れの原因のひとつになるので、樽屋竹十では,蓋(ふた)の部分にのみ使います。

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二種の「ありきり」






2009年6月11日

酒樽やのお八つ其の弐拾伍 その後のバウムクーヘン

東京も東北南部も梅雨入りしました。
昨日の神戸の雨がきっと東京に移動していることでしょう。
雨期は嫌なものですが、日本一雨の多い奈良県吉野郡川上村では樽(タル)の材料となる、
杉が最も良く育つ時期でもあります。雨と太陽の光が他の植物同様、吉野杉には不可欠です。
写真はモンテールのバウムクーヘンです。
通販で大人気だそうですが、バウムクーヘンといえば、やっぱりユーハイムでしょう。
日本ではじめて、バウムクーヘンを作った店ですから。

monteur_y-010.jpegphoto/モンテールのサイトより
これはこれで厚さ10センチが売り物だそうです。

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こちらは、そっくりですけれど「吉野杉」のかたまりです。
樽(タル)の材料を取った残りの芯の部分です。
樹木を車の中や家の中に置いておくだけで自然の芳香剤となり、嫌な匂いも吸い取ってくれます。
あらかじめ、切り込みを入れて割れを防いでおります。
居ながらにして、「森林浴」が出来る訳です。


1921年(大正10年)、カールとエリーゼ・ユーハイム夫妻が、横浜・山下町にドイツ菓子の店「E・ユーハイム」を開店しました。
カールは1886年、南ドイツのカウプ・アム・ライン生まれ。
厳しい修行の後、一人前の菓子職人になった20歳の時、菓子協会の勧められ中国・青島(チンタオ)の菓子店に勤めました。
当時の青島はドイツの租借地、カールの作るバウムクーヘンは「本場ドイツの味」と評判を呼び、権威あるマイスターの資格も取得しました。
あっという間の5年間が過ぎ、久しぶりにドイツに帰ったカールはひとりの女性を紹介されます。
その女性こそエリーゼでした。1892年ザンクト・アンドレーアスベルク・ハールツ生まれ。
簿記や菓子店経営に必要な学科を習得している聡明な女性でした。
ふたりは1914年7月青島で結婚式をあげます。
しかし、折悪しく第一次世界大戦が勃発し、青島は日本軍に占領されてしまい、カールは日本に強制連行されてしまったのです。
広島の収容所に入ったカールでしたが、たまたま開かれたドイツ作品展示即売会で自慢のバウムクーヘンを出品、これが日本で初めて焼かれたバウムクーヘンでした
1920年捕虜生活から開放されたカールは、その後も日本に残り、ちょうど「明治屋」が銀座に開店しようとしていた洋風喫茶「カフェ・ユーロップ」の製菓主任として迎えられることになりました。
青島に残されていたエリーゼは息子のフランツを連れて日本に渡り、カールと再開。その後、明治屋との契約が終わった1921年、全財産をはたいて手に入れたのが横浜の店だったのです。

「E・ユーハイム」では、バウムクーヘンをはじめ、サンドケーキ、プラムケーキ、アップルパイなどが飛ぶように売れ、順調な滑り出しをみせました。カールは日本人の職人を「ベカさん」と呼び、ドイツ式の材料を正確に計る科学的なやり方を教えていきました。
しかしマイスターの誇りであるバウムクーヘンだけは他の職人にまかせることはありませんでした。
ふたりの間に女の子も生まれ、すべてが順調だった矢先の1923年、なんと関東大震災が起こり、店は一瞬にして灰燼と化してしまったのです。
命からがら船で逃げ出した夫妻がたどり着いたのが神戸でした。
このときふたりの全財産はカールのポケットに入っていた五円札が1枚だけだったといいます。

しかし、夫妻はあきらめまず、多額の借金をして神戸・三宮に新しい店を開店。
その名も「Juchheim's」
英国人ミッチェル氏の設計による神戸で初めての洋館菓子店でした。
港町神戸には当時から多くの外国人が住んでおり、ユーハイムは本場のドイツ菓子を売る店として注目され、初日の売上はなんと135円40銭。
2日目には材料が底をつくまで売りつくしてしまったといいます。
失意のどん底から、また夫妻は新たな夢に向かって歩み出します。
順調に業績を伸ばし、近代的で清潔な新工場を建設するに至りました。
その工場が完成して間もない1930年10月には、昭和天皇即位を記念して神戸で行われた大観艦式の献上菓子に選ばれるなど、順風満帆の日々が続きました。

その後新しい店などに押されて売上を落とすこともありましたが、そんな時エリーゼはカールや職人に向かって力強く言いました。
「私たちは最高の材料と最高の技術でお菓子を作っています。心配ありません。」と。

やがて第二次世界大戦が勃発。職人たちも次々戦場へ赴きました。
神戸も空襲を受け、夫妻も六甲へ疎開しましたが、カールは病に倒れ、日々衰えていきました。
1945年夏、広島・長崎に原爆が投下され、終戦を迎える前夜、ついにカールは息を引き取りました。その上、エリーゼも終戦後ドイツに強制送還されてしまったのです。
しかしユーハイムの灯は消えませんでした。
戦争から戻った職人たちが1950年神戸・生田神社前に店を開き「ユーハイム」を再開したのでした。そして1953年には、6年ぶりにエリーゼを日本に迎えることができたのです。再びユーハイムは、カールとエリーゼの理念に導かれながら「美味しいお菓子」を作ることで、新たな時代に向かって歩み始めたのです。
その後日本経済の成長に伴い、より多くのお客様にお菓子をお届けできるようになりました。エリーゼは、商売繁盛の秘訣は「誠実と正直」と言い続け、純正自然の材料のみ使い、不必要な添加物は使わないという基本理念は変わることはありませんでした。
やがて1971年、エリーゼ・ユーハイムは80年の生涯を閉じましたが、1976年にはドイツに出店。
エリーゼの悲願を果たすことができたのです。「 ユーハイム物語」より抜粋

2009年6月10日

酒樽屋と雨繍繍(あめしょうじょう)

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西日本が梅雨入り宣言したと思ったら、予報通り今日は朝から雨降りです。
この時期と真夏は酒樽屋にとって一番困る季節なのです。

丸竹を短冊状に割っておくのですが、表皮の「天皮」と呼ぶ青い部分も、
内部の白い「竹茹」という白い身の部分も黴が発生し易くなるのです。

原竹のままでも、割った状態でも上へ上へ積み上げると、下の部分は腐って来ます。
毎日、天地返しを繰り返さねばなりません。
青い箍(たが)の木樽(たる)は出来上がってからも、竹からも杉からも黴が出始めるので、
新鮮な空気に触れさせたり、和紙で包んで密封したり、お世話が大変です。
この後やって来る夏の乾燥にも木樽(タル)は収縮してしまい、洩れの原因になります。

あらかじめ、まとめて箍(タガ)を巻いておいて木樽(たる)に入れず,自然に乾燥させる、
「枯らし輪」という手法もありますが、大量に木樽を作る時代の方法で、樽屋竹十では、
この手法は使いません。

私の住まいは工房から100メートル程離れた場所にある、元は竹置き場だった所です。
子供の頃、山のように積まれた竹の上に登って、よく遊んだものです。
今日のような雨の日には竹が濡れて足を滑らせ、怪我をする友達もおりました。
明治までは某酒造メーカーの蔵があった筈ですが、火事か台風で建物は消えてしまいました。
その後、樽屋竹十が木樽(タル)用の材料を保存する為の倉庫を建てました。

最近、内部を改装して居宅にしたわけです。
和室には敬愛する中島棕隠の二つ折屏風をしつらえました。
偶然、「雨竹」と揮毫があり、縁を感じます。

2009年6月9日

酒樽屋の放送時間決定

先日受けた、樽(たる)屋取材の放送時間が決定しました。
本日6月9日、午後1:12と2:12、そして午後3:51です。
クイズ形式なので、前半二回に放送したものの答えを3:51に放送するようです。
余り、樽(たる)屋が先に通知すると、クイズ形式ですから、しっかりヒントになってしまいます。

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この写真は樽屋竹十がつくっている樽(たる)ではありません。
洋樽です。
樽屋竹十は「和樽(たる)」をつくっております。




2009年6月8日

酒樽屋 ラヂヲ局の取材を受ける

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地元のラヂヲ局「ラヂヲ関西」の取材を受けました。
局員のOさんが着ているTシャツが気になって、取材の後に尋ねたら、木樽の話はそっちのけでジェフ・ベックとバディ・ガイの話に終始していまいました。

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放送は明日6月9日の午後1時から5時までの間というから、のんびりしたものです。
長い番組の最初と最後の方に出す予定で、多分3時頃にも出すかなというような感じで、
詳細は未定だそうです。
とにかく、名目は木樽作りでありことには違いありません。

残念ながら、神戸付近でしか聴く事が出来ない局なのです。
ちなみに、周波数は558kHz・1395kHz。




樽太鼓(タルたいこ)の修理 蓋(ふた)を換える

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しっかり作った樽太鼓(タルたいこ)も、元気よく叩くものですから、
どうしても、蓋(フタ)の表面がささくれ立って来ます。
こうなると、音も悪くなって来ているので、新品の蓋(フタ)と交換しなければなりません。
予算の関係から、御依頼主の要望で蓋(フタ)を裏返して使う事もあります。
畳の裏替えの様なものですが、余りに使い込んでいる蓋(フタ)は板が薄くなっていて、
長持ちしませんから、おすすめできません。

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この程度の傷み方ですと、交換の必要はありませんが今回は箍(たが)が外れてしまいました。



この作業は簡単そうに思われがちですが、案外手間取るものでして、
全ての箍(タガ)をいったん全部はずさねば、蓋(フタ)を入れる事が出来ないのです。
その上、箍(たが)が数本切れていたり、ゆるんでいることが殆どなので、
たいてい、蓋(ふた)だけではなく、箍(たが)も総替えになります。
古い箍(たが)は硬化していて、径を変える作業が不可能なのです。
樽太鼓の修理に関しては大小を問わず、新品の約半額で請け負っておりますが、
樽屋にとっては正直なところ新たに作る方が楽なのです。

遠い地域の方々は往復の運賃も加算される訳ですけれど、
折角つくった樽太鼓は出来るだけ修理しつながら愛情を持って長く使って頂きたいものですし、
アフターサーヴィスのひとつと考え、採算を度外視して、お引き受けしております。

2009年6月6日

酒樽(タル)屋小さい樽(タル)太鼓を作る

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樽(タル)は高さが一尺一寸(約34センチ)のものが最小で、時に九寸(約27センチ)の物も作ります。
これ以上小さな樽(タル)は桶(オケ)屋さんの仕事になります。

この度、樽屋竹十の倉庫を片付けていたら、古い九寸の樽太鼓がたくさん出て来たので、
きれいに再生して限定20個に限って廉価にて販売する事にしました。
上の直径が約34センチ、高さも下の直径も約28センチ。
箍(タガ)は上部に2本、下部に2本の計4本のみです。

写真の向こう側に見えるのが一斗(34型)樽太鼓。

小学校低学年、幼稚園の子供達には丁度良いと思います。
音は大きさに関係なく、良い音が出ます。
価格は一丁、5、000円(税込み5,250円)

蓋(フタ)の無い「小物入れ」は4,000円(税込み4、200円)です。




2009年6月5日

樽(タル)太鼓にピッタリの撥(バチ)

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ゴムの木だそうです。
ブラジル産の筈、南洋材なので木目が殆ど無く、しなりがあって割れにくく、
太鼓樽のフタも傷めにくい上に、第一に安価と三拍子も四拍子も揃っています。
ゴムと言えば柔らかすぎる印象を受けますが、ゴムはその樹脂を取って作る物です。
護謨の樹木は杉より径の大きな原生林を沢山、伐採していますし、
そうしないと森林が死んでしまいます。
箸に於ける杉と同じ運命です。
間伐材を何かに使う努力を惜しんでは森が死んでしまいます。

ちなみに一対(二本)で1、500円です。
樽太鼓には必需品です。
他に「松」のバチもありますが、松は杉より硬いので、樽太鼓の蓋(フタ)をすぐに傷めます。 価格は同じ1,500円です。
樫は硬過ぎて、論外です。

2009年6月4日

北海道 奥尻島へ渡った樽太鼓(タルダイコ)

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昨年の6月に奥尻島へ送った樽太鼓が評判で島の恒例行事になりそうです。
島の小学校へ樽太鼓を送ったのですが、住所が奥尻郡となっていたので、
離島であることを見落とし、送料は思っていた倍ほどの請求が来てしまいました。
今回、蓋(フタ)の取替のため、はるばる樽太鼓が海を渡って戻って来ます。

奥尻島といえば平成5年の大地震で壊滅状態になった島。
当時,樽太鼓など夢のまた夢だったことでしょう。
ただ北の果てのように思っていた島が地震で知られることになってしまいました。
かつてニシン漁で栄えた島だという知識しか持っていなかったのが、
アイヌの文化が残り、江戸時代から既に移住し明治には郡の組織になった由緒ある町であることを震災のお陰で知りました。
農業も盛んで,ワイン工場も出来ました。観光地としても良い避暑地でしょう。
小樽(タル)ではなく、江差からまだ船に乗って行くのですが、想像していたより広い島です。
《石狩挽歌》の中で
「ゴメがなくから」という歌詞は、ずっと「米が無い」のかと思っていましたが、
「海猫が鳴く」だったのですね。
「筒袖(つっぽ)」「ヤン衆」も歌を聴いていても意味が判りませんでした。

 「笠戸丸」は、元は神戸から出航したブラジルへの移民船ですが、客船、病院船などに艤装。今ブームの小林多喜二の小説「蟹工船」にも登場します。最後は漁業工船に改造され、
��945年8月9日カムチャッカ沖を航行中、ソ連軍機により空爆・沈没した事も最近知りました。

今は全国からの支援で、奥尻島もすっかり元の生活に戻ったそうです。
神戸もその2年後に大地震の被害にあったので、他人事とは思えない島です。
同じように地震の被害にあった地域がこんな風に復興している写真を送ってもらうと、
嬉しくなりますし、神戸から奥尻島へ樽太鼓を送る事が出来る事に大きな幸せを感じます。

2009年6月3日

よさこいソーラン節、八木節、阿波踊り用に樽(タル)太鼓を使う

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樽太鼓の季節です。
というより、各地の学校は予算の関係から、大人達は八木節、阿波踊り、よさこいソーラン節など夏祭りのための、練習に今頃から必要になってくる訳です。
樽屋にとっても、酒樽が忙しくなる前に充分作りためておかないと年末の酒樽繁忙期には、
樽太鼓を作っている暇がないのです。

数年使って、樽太鼓の蓋(フタ)の取替依頼も、今の時期に集中します。

樽太鼓の山の向こうに見えているのはパーシュレイという英国メーカーが作った、
郵便配達用の自転車で、これに一斗樽を載せて近所には配達します。
いつか、後ろに四斗樽も積める台車を取り付ける予定です。
ガソリンも重量税も車検も必要ありませんが、対人対物保険には入っていた方が良いでしょう。

2009年6月2日

酒樽屋のお八つ  その弐拾肆 カステラ

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カステラ好きの樽屋の親方は、普段は長崎のものを選びますが、
時には違う場所のものも食します。
今日は、創業明治十八年 京都 大極殿本舗のもの。
切れ端を買いに行ったのですけれど、毎日あるものではないので、あいにく売り切れ。
一番かわいい大きさの物をもとめました。

包装紙が大正まで使用していた物の複製ですから、雰囲気があります。
いわく、カステイラ芝田謹製、「元和蘭人の嗜好品にして慶長年間始めて日本に渡来なせし
神秘的菓子にして其カステイラ(南蛮語)は西班牙の地名CASTILLAに起こり輸入後
カステイラと訛りて呼志を謂ふカステイラはさとう鶏卵小麦粉の三種にて精製せし事なれば
美味滋養第一なり 黄金深色 風味淡白 老賞幼懐 滋養豊富 言宣哉」

カステラは、粕庭良、加寿天以羅、佳州帝良、等の当て字を使いますが、

大極殿の場合は大和言葉の裳いの豊さから「春庭良」という不思議な表記にされています。

確かに、11世紀期のスペイン北部にカスティーリャ王国という名の国がありました。

京都市中京区六角通高倉東入南側
075-221-3311

六角店 9:00am~7:00pm

甘味処「栖園」10:00am~6:00pm
定休日 水曜日  本店 年中無休


樽屋が樽(タル)を修理する

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この時期は丁度、樽(タル)や桶(オケ)の修理の依頼が増えます。
全国方々から樽屋竹十に樽(タル)の修理依頼品が持ち込まれます。

この写真の場合は、かなり難航しそうです。
長い間、放置されていたのと、そのために部材が揃っていない可能性が高いからです。
それに、これは樽(タル)ではなく、桶(オケ)なのです。
こちらは樽(タル)屋ですから、桶(オケ)は、手間がかかるのです。
果たして復元出来るでしょうか。

2009年6月1日

酒樽屋の休日 枇杷を愛でる

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今年も、「枇杷(びわ)」の季節になりました。
この過ごし易い時期は樽(タル)屋の仕事が比較的減り、たまっている雑用を片付けます。

日曜ですが、某蔵元に呼び出されて、夏に企画されているイベントの打ち合わせでした。
庭の灯籠から、枇杷(びわ)の実がのぞいております。

昔は、どの家庭の前庭にも枇杷の木があって、子供の頃に友達と木に登って無断で食べて、
よく叱られたものです。

枇杷(びわ)Erriobotrya Japonicaは文献上は奈良時代にも見えますが、本格的に中国から渡来したのは、
樽(タル)の技術が確立した数十年後の天保年間ですから比較的新しいものです。

殆ど、果実を食べますが、今年は冬が長かったので関西では未だ早いようです。
そのまま食べる他に果実酒にしたり、葉は薬用になります。
材は大変硬いので、杖や木刀に使います。
樽(タル)には使えません。

「桃栗三年柿八年」は人口に膾炙しておりますが、その後に「枇杷は早くて十三年」と、
続く事は余り知られていないようです。

樽(タル)屋の近所に琵琶町という町がありますけれど、
琵琶はもっと古くイスラム圏から渡来した、弦楽器です。