2010年6月18日

樽太鼓(たるたいこ)の晴舞台

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今年の鶴岡踊り祭りに参加した「宝谷八木節保存会」の勇姿です。

山形県は日本でも有数の酒処ですし、明治までは主たる輸送容器でしたから、かつては酒樽(さかだる)が村中に転がっていた事でしょう。
現在も「たるや竹十」から山形県の蔵元へ定期的に酒樽(さかだる)をお送りしております。

写真は今春のものですが、本来は夏の盆踊りの際に盛大に繰り広げられます。
他の地域同様、盆踊りは念仏信仰の一つです。発祥は鎌倉時代、江戸中期に現在の形式が確立します。
初期における、戦での死者への弔い、疫病による死人への鎮魂歌等の意味が薄れ、年に一度の身分を超えた夏祭りへと趣旨が変化して来ます。
当時の鶴ヶ岡城の下での踊りは、神田明神の神田祭りにも匹敵するといわれる程の巨大なものだったと伝えられています。
明治初期まで約200年間続いた、この踊りはも全国の踊り同様三日三晩踊り続けたそうです(旧暦7月17日から20日)
当然お酒も入りますし、年に一度のハレですから、様々な事故もありました。
結局、風紀の乱れが原因で幕府から徹夜の踊りが禁止されたり、先の戦争で男手が足りず中止されたりした経緯はあるものの、現代ではすっかり宗教色も消え、盆踊りは夏の風物詩の一つとして定着して来ました。

往事は一つの村から多い時は200人、今の五日町のように商店が立ち並ぶ村からは500人以上の連が繰り出したと言います。
唄の文句は村ごとに鎮魂歌であったり恋歌であったり、あるいは卑猥なものと毎年書き替えられて来ましたと言います。
それに伴って衣裳や振り付けも変化してきました。
 構成は仕組み踊りと呼び、「大踊り」「中立」「どさ踊り」の三種でした。
踊り手は当然男に限ります。

「大踊り」は男役女役一対で役者の扮装で襦袢姿、「中立ち」はそれを簡素化したもの、「どさ踊り」は仮面をつけての滑稽踊り。
どさの主役は薄給武士が住む給人町でした。高禄の範士の家中新町からも繰り出し、町方ばかりならぬ城下上げての一大イベントだったのです。

現代では盆踊りは身分や立場を超えて、夏の暑さだけではなく全てを忘れる事の出来る楽しい催しになりました。

八木節阿波踊りを含めて、このような催しに「樽太鼓(たるたいこ)」も復活出来る様になって樽屋にとって嬉しい限りです。




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